ファミリア
吉田ぐんじょう
・
夕飯のあと
残した刺身を生姜醤油に漬けて冷蔵庫へしまう
こうしておいて翌日に
焼いて食べると美味しいというのは
母に教わったことだ
そういえば結婚して引っ越す当日に
母がお餞別と言ってわたしにくれたのは
蟹缶だった
昔から実家に置いてあったもので
父が出張帰りにお土産で買ってきてくれて
だけどもったいなくてずっと食べなかったやつだ
ところどころ錆びついていた
どうしようもなくさびしくなった夜中に
ひとりで泣きながら食べた
あの時笑った母に手を振ったまま
もう一年くらい帰省していない
刺身を漬け込んだ人差し指を舐めてみる
同じ材料同じ分量で作っても
どうしたって生姜醤油は
母の味に近づきすらしない
・
雨の降るうすぐらい昼さがり
こわいものが入ってこないように
窓もドアもすべて施錠して
安心して横たわり目を閉じる
もう誰も守ってくれる人はいないから
この身はじぶんで守らねばならないんだ
だけど
こわいものはいつだって
どこからだってやってくる
血の沢山出てくる悪夢を見て
あ、おかあさん おとうさん たすけて
と言って目覚めた
午後七時の闇が
親しげに部屋全体を覆っている
しいんとした台所には
炊飯器が静かに湯気をあげているだけで
誰もいない
そうだ
わたしから捨てたんだ
・
お中元を実家へ持っていくのがこわい
例外なく老いた
母と兄と父と祖母の待っている家を
夫と二人で訪ねてゆくのがこわい
お中元を持って行って帰ったあと
わたしのいない家で
みんながどれどれとか言いながら
まるで宝物を触るみたいにそうっと
わたしの持って行ったキャノーラ油三点セットとか
永谷園お茶漬けセットとかを
あけるかもしれない
と想像するのがこわい
二つ折りの携帯電話を開けたり閉じたりしながら
わたしの細胞にまで深くしみ込んでいる
市外局番からの電話番号を
押そうとして
でもやっぱり押さない
子供のままの甲高い声で
わたしや兄や妹が出たらどうしよう
と思ってしまうのだ