左手で書いたノート
光井 新

「それはダメ!」
 そんな声を出してしまったものだから、いぢわるな彼はますます面白がって、手に持っているノートをパラパラと眺めた。
「うわー、きったねー字だなー、いつの?」
「十五歳の時の」
「小学生が書いた物かと思った」
「しょうがないでしょ、まだ字を書き始めたばかりだったんだから」
「何それ?どういう意味?」
「丁度右手が動かなくなった時期に、左手で書いてたの」
「あー、なるほど、闘病日記みたいな?」
「この右手はね、病気じゃなくて怪我が原因なの。闘病日記とか付ける暇も無く、すぐに動かなくなったものなの」
「じゃぁリハビリ日記ってヤツだ?」
「まぁリハビリっていうか、左手で文字を書いたりする練習っていうのもあったけど……」
「書かれてる内容は違うんだ?何が書かれてるの?ひょっとしてデスノートみたいに、右手がちゃんと動くヤツ死ねやとか?」
「そんなんじゃないけど、とにかくそれはダメ!」
「はは〜ん、さては恥ずかしい事が書いてあるな?甘酸っぱいポエムとか?意味不明な現代詩とか?」

一月二十一日(水)
今日からこのノートに毎日、左手で文章を書いてみる事にした。
テーマはまだ未定。その時思っている事を書いていこうかな。三日坊主にならないように頑張るぞ。
私には、右手が動かなくなって、とても後悔している事がある。もっと色んな事に、真剣に、頑張っておけばよかったな。
利き手だった私の右手は何でもできた。文字だってもっと上手に書けたし、器用に色んな事ができる魔法の右手だった。
ひょっとしたらピアノが弾けたかもしれない。ひょっとしたら絵が描けたかもしれない。もっともっと頑張ってれば、もっともっと色んな事ができたかもしれない。
とても悔しい。右手が動かなくなった事よりも、自分の持っていた可能性に気付かないで、大した努力もせずに適当に生きてきた事が。
だからとりあえず、このノートは頑張りたいな。私の左手にいつか、右手よりも素敵な魔法が宿るまで。

「ほぉ、魔法の右手とは、一ページ目からなかなかポエムってるねぇ、中原中也賞もんのポエジーだねぇ」
「もういいでしょ、返してよ」
「いやいやこれは面白い、ここですんなり返してしまっては、続きが気になって夜も眠れない」

一月二十二日(木)
今日からまた学校へ行く事になった。久しぶりにみんなに会って、元気を分けて貰った気がする。
みんなとても心配してくれていた。ありがとう、心配かけてごめんね。
だけど、右手の事に気を使ってか、必要以上に親切にされるのが苦しかった。できれば、昔と変わらない態度で接して欲しかった。
もう私は、みんなと同じ普通の子じゃないのかな? そんな事ないよね。右手の事なんて誰も気にしない位、左手だけでちゃんと普通に生活してみせる。頑張らなきゃ。
授業なんかも、前よりずっと真剣に受けられるようになった。今はまだノートを取るので精一杯だけど、それでも今日一日で文字は大分上手くなった気がする。小さいけれど、努力した分だけちゃんと前進してるんだ。

「ふ〜ん、そりゃ周りも気ぃ使うわなぁ。ぶっちゃけ俺も、今までお前に直接聞かなかったけど、その右手の事気になって仕方無かったもん」
「今まで気を使ってくれてたの?それ聞いてちょっとショック」
「そりゃそうでしょ、付き合って一ヶ月にもなるのに、右手の事について何も聞かないなんて。お前の方から話してくれるの待ってたのに、お前って俺の事何だと思ってたの?」
「気にしない人だと思ってた」
「それってバカのニュアンス含んでるよね。それ聞いて俺もちょっとショック」
「じゃぁそのノート返してよ、じゃないともっと印象悪くなるよ」
「まぁいいじゃない、この際その右手の事は知っておくべきだしさぁ。それに俺は、愛するお前の事をもっと知りたいのさ。交際一ヶ月記念って事で」

一月二十三日(金)
祝、三日目突入。三日坊主の峠も無事越えた事だし、この調子で四日目も五日目もその先もずっと、どんどん頑張っていこうと思う。
まずは今日の分をしっかり書かなきゃ、いつまで続くか解らないけど、この一日の積み重ねがとても大切な気がする。
昼休みに友達と進路の話をした。私もその一人なんだけど、殆どの子が普通高校に進学する。それで、誰と誰が同じ学校で、誰と誰が違う学校だとか、そんな話をしていた。
そしたら、うちのクラスに一人、仏師っていう仏像を作る職人さんの弟子になる男の子がいるんだけど、その子の話になった。その子っていうのが実は私の密かに想いを寄せる相手で、中学を卒業したら弟子入りの為に京都へ行ってしまうという事を聞いて、とても寂しく思った。
卒業するまでに達成したい、私の目標が一つできた。想いを伝える為に、可愛くて綺麗な文字で手紙が書ける様になる事。
卒業するまであと少し、悔いの無い中学校生活を送りたい。

「おっとぉ、これはラブストーリー突入か?」
「現彼氏としては、こういうの見ない方がいいんじゃない?」
「大丈夫、大丈夫。俺は器のでっかい男だからなぁ」
「ていうよりやっぱり、気にしない、かっこバカな人なんじゃない?」
「まぁまぁ、細かい事は気にすんなって」
「少しは気にしろ!私のノート返せ」
「気にしてるから読むんじゃん、次行ってみよう!」

一月二十四日(土)
今日は市立図書館へ行った。今日は何だか、ちょっと一人になりたい気分だった。誰にも言わずに一人で行ったのに、勉強している学校の友達に会ってしまった。
私も一緒に勉強する事になった。
仏師を目指しているあの子も来てたけど、勉強なんて必要無いって言って、仏像の写真集ばかり見ていた。私はその様子が気になって、勉強に集中できなくって、ついチラチラと見てしまった。
すると、「ひょっとして好きなのか?」と言って、空いていた私の隣の席に移動してきた。
そして、慌てる私に「一緒に見ようぜ」と言うと、私にも見えるように写真集を開いた。なんだ仏像の事か、と、ちょっと安心したけど、ちょっとガッカリした。
でも、隣であまりにも楽しそうに熱弁するものだから、もしかすると仏像の事も本当に好きになっちゃうかも?
帰り際、消しゴムに彫られた阿修羅を貰った。今のところ、私の一番好きな仏像。私の宝物。

「う〜ん、青春してるねぇ。ヒューヒューだよ」
「カッキーン、じゃなくてカッチーン。もうやめて、本当に怒るよ」
「え〜、折角面白くなってきたのにぃ」
「お願いだからもうやめて!」
「はいはいわかりましたよ。じゃぁ最後、最後のページってのがどうなってるのか気になるじゃん、それだけ読ましてっ」

三月二十一日(土)
今日でいよいよ最後のページ。六十日間よく頑張った、私。
毎日ちゃんと意識して丁寧に書いていたから、字は大分綺麗になった。一ページ目を開いてみれば一目瞭然。ひょっとしたら、右手より上手く書けるようになったかも?
だけど文字が上手くなる事よりも、自分の素直な気持ちをノートに書いていた事が良い経験になった気がする。
あの手紙もきっと、私の素直な気持ちがちゃんと届いたんだと思う。あれから二週間、何も無くて不安だったけど、諦めかけていた今日、やっと返事が来て嬉しかった。
引っ越しとか、まだ馴れない新生活とか、色々あって忙しかったみたいだけど、ちゃんと返事を書いてくれた。彼の字は、豪快というか、前衛的というか、その、ちょっと汚いけれど、でもそんな事は関係無くて、気持ちがとても嬉しかった。
自分の気持ちとちゃんと向き合う事が大事、彼の手紙に書いてあった言葉。仏像の表情には、自分の気持ちが表れるんだって。だから、どんなに技術的な事が巧くなっても、自分の気持ちがちゃんと分かっていないと上手くいかないんだって。
このノートは今日で終わりだけど、これからも、自分の気持ちとちゃんと向き合える、そんな人間に私はなりたいな。
きっかけは右手が動かなくなった事だったけど、右手が動かなくても私には左手がある。そうやって生きていくしかない。
生きていくなら、気持ちは前向きの方が良いに決まってる、だからもう、いつまでも後ろを向いてないで、ちゃんと動いていた頃の右手ばかり見てないで、前を見て生きていこう。

「そういえば途中からずっと気になってたんだけど、あそこに飾ってある木彫りの千手観音像ってここに出てくる仏師君から貰ったの?」
「ま、まぁそういう事だけど」
「どおりでお前に顔が似てると思った、目とか、観音様なのに穏やかというよりは、びしっと前向きな表情してるし」
「それよりもノート!」
「わかってますよ〜、ちゃんと元の場所にしまっときますよ〜。ん、手紙発見!」
「それはダメ!」


散文(批評随筆小説等) 左手で書いたノート Copyright 光井 新 2009-07-16 17:45:07
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