東京少年 「新宿 (二)」
虹村 凌

 どんなにゆっくり行っても、祖師ヶ谷大蔵から新宿まで1時間はかからない。煙草を吸ったり、立ち読みをしたり、音楽を聴きながら歩いたり、と出来る限りの方法で時間を潰した。こういう事があまり苦にならない。ただ、今日、これからするであろう話の事を考えると、あまり明るい気分にはなれなかった。
 待ち合わせ時間の10分前に、新宿駅小田急改札西口に着いた。俺は携帯を開き、ローザに到着した旨を伝えて、買ったばかりの缶珈琲をプルトップを引いた。カシュッ、という音を立てて、味気ないブラック珈琲の匂いが漂ってきた。口に含むと、苦味と共に缶珈琲独特の安っぽい香りが広がった。この美味しくない感じが好きなのだ。いや、この不味さが美味しいと思うのだ。缶珈琲を飲みながらしばらくボーっとしていると、改札口の向こうから手を振るローザが見えた。
 ローザはイタリア人と日本人のハーフで、同級生の粕村の紹介で知り合った、同い年の女の子だった。右目の眼輪筋に軽い障害を抱えているらしく、いつも右目が半分ふさがっていた。ちょっと痩せ気味のローザは、ほっそりしら腕を振りながら、改札を出てきた。
「お待たせ!待った?」
 半分ふさがった右目で笑いながら、ローザは俺に訊いた。
「いや、全然」
 お決まりの返事をすると、俺とローザは並んで歩き出した。
「元気?」
「うん、元気だよ。ローザは?」
「私も元気だよ。あ、リュウジは朝御飯食べた?」
「うん。ローザは何か食べた?」
「ううん。私何も食べてないから、ちょっとお腹空いてるの。」
「そっか。じゃあ何か食べられるところがいいね」
 ローザがドーナツを食べたい、と言うので新宿区役所の側にある、ミスタードーナッツに入る事にした。一階席に空きが無かったが、二階の喫煙席でも構わないとローザが言うので、買ったドーナツと珈琲を持って二階の喫煙席に座った。
「いただきます」
 ローザはニコニコしながら、ドーナツを齧った。俺はセブンスターに火をつけて、薄いアメリカン珈琲を一口飲んだ。ドーナツを美味しそうに食べているローザを眺めながら、ちょっと前の事を思い出していた。
 粕村の紹介で知り合い、メールから始まった、いかにも最近っぽい関係だった。あまり会う事は無かったけれど、メールと電話でカバーしてきたと思っている。彼氏と彼女、と言う明確な関係ではなかったけれど、俺は彼女の事を好きだったし、きっと彼女だってそうだったに違いない、と思っている。大晦日の時も、会え無いから、一晩中電話していた。大恋愛、などと言う大それたものじゃなかったけれど、確かに、幸せな時間だったと思う。
 その関係も、今日で終わるのだな、と覚悟はしていたが、幸せそうにドーナツを食べるローザを見ていると、何だかそれも俺の勘違いのようにも思えてくる。いや、勘違いなんかでは無く、本当にその話をする為に、俺とローザはこうして会っているのだ。
 ローザはドーナツを食べ終わると、アイスコーヒーで喉を潤してから、俺の顔を凝視した。
「美味かった?」
「うん」
 ローザは頷くと、大きな深呼吸をひとつ、体全体を動かしながらした。同時に俺は、手に持っていたセブンスターを灰皿でもみ消した。
「話って何?」
 俺は既に火の消えたセブンスターを、灰皿にぐりぐりと押し付けながら訊いた。
「うん。もう、わかってると思うけど…」
 ローザは、煙草を灰皿に押し付ける俺の指を見ていた。
「私、疲れちゃった」
 ローザは、俺の目を見ずに、短く言った。
「そうか」
 俺が煙草を離すと、ローザは視線を俺に向けた。
「だって、リュウジ、言うことが重いんだもん」
「うん」
「別に、リュウジを嫌いになった訳じゃないんだよ?」
「うん、わかってる」
「リュウジの事、好きだけど、気持ちがね、重いんだ」
「…」
 相槌が打てない。
「嬉しいんだけど、今の私には、ちょっと重いの」
「…そっか」
「ごめんね。でも、リュウジの事、好きなんだよ?それは信じて?」
「うん、大丈夫。わかってるから」
 そう言いながら、俺は「重い」と言う言葉の意味を理解しかねていた。重い、ってどういう事なんだろう。彼女が俺を嫌いになった訳じゃないと言うのは、半分くらい信じられる。しかし、重いってどういう事だ。同級生が彼女にそう言われた、意味がわからない!と愚痴をこぼしたのを訊いた事があったが、実際に言われてみると、やはり理解しかねる言葉だった。
「なぁ」
「ん?」
「重いって、どういう事だ?」
「え?」
「よくわかんねぇんだ。重いって、どういう事だ?」
「リュウジさ、私の事好きなんだよね?」
「うん」
「私も、リュウジの事が好き。でもね、二人の「好き」の大きさが違うの」
「うん」
「リュウジの私を好き、がね、私のリュウジを好き、より大きくてね、それが重いの」
「同じくらい、じゃないって言うのはわかるよ」
「その違いが怖いの。だから、ちょっと距離を置いて、冷静になって欲しいの」
「うん」
 その後も、ローザは何かを言っていたけど、俺の耳には入ってこなかった。俺には、その好きだという感情の大きさが違うから、重いという説明が理解出来なかった。重いとか、軽いとか、そういう事がよくわからなかった。ローザは何かを説明しながら、時折こちらを見て微笑んでいる。俺も、口角を持ち上げて笑いながら、小さく頷いていた。同じ女の子が、同じ声で、俺の事を好きだと言ってくれていた事が、俄かに信じられなくなる。けれど、それはどう考えても事実だった。そして、今ここで言い渡された別れも、事実だった。認めない訳じゃないけれど、人間の心はそうも簡単に変わるものなのかと、俺は不思議な気持ちにさせられていた。
 ミスタードーナッツを出て、ローザと別れてからの記憶が無い。気付くと俺は、家のベッドで午睡から目覚めたところだった。まだ太陽は高い位置で輝いており、あまり時間が経っていないことを教えてくれた。
 俺は窓を開けてベランダに立ち、セブンスターに火をつけた。ジリジリと音を立てて、白いセブンスターが、オレンジ色を境界として、灰色に変わっていく。短くなったセブンスターを見て、ふと思い立ち、左腕にギュッと押し付けてみた。想像していたよりも、遥かに熱くない煙草を驚きながら見ていた。しばらく押し付けていたが、どんどんと熱が冷めていくのを感じて、ベランダの排水溝に吸殻を放り込むと、洗面所に向かって、傷口を水で流した。


散文(批評随筆小説等) 東京少年 「新宿 (二)」 Copyright 虹村 凌 2009-07-11 00:44:56
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