「名」馬列伝(4) ツキノイチバン
角田寿星

4角に差しかかるところだった。圧倒的な1番人気だった彼は、外から3番手まで捲り、先頭を窺うところまで上がってきた。彼がどのように勝ちを収めるのか、観客の興味はそこだけに集約されていた。
次の瞬間、彼の躯がガクンと前に折れ、なおも走ろうとする彼を騎手が止める。左前肢骨折。明らかに重症だった。
3年間ずっと彼に付き添ってきた厩務員は、その場でわっと泣き崩れた。調教師は唇を噛みながら、じっとその光景を見つめていた。

42年にも渡る騎手生活に別れを告げた、川崎競馬場所属の7100勝騎手、佐々木竹見が思い出の馬を語る時、いの一番に名前の挙がる馬がいる。昭和60年代、1歳年下の東京王冠馬ロッキータイガーと、やはり1歳年下の岩手チャンピオンであるカウンテスアップとの壮絶な抗争を繰り広げた、あの馬である。 テツノカチドキ。
勝利者はいなかった。三頭が三頭とも、一時代を築いた名馬である。中央への殴り込みを図ったが、5歳時には髪の毛一本の差でジャパンCへの出走を逃した。ロッキータイガーのJC好走(シンボリルドルフの2着)を目の当たりにしたファンは、JCに出られたら最低3着はあった、と噂した。
6歳のオールカマ−は3着と健闘したが、その前には芝適性に優れ、中央の二冠馬ミホシンザンとも互角に渡り合った笠松のジュサブローがいた。7歳のオールカマ−も敗退。ついにJC出走はかなわなかった。
騎手のお手馬のなかで、テツノカチドキに匹敵する能力を持った、あるいはそれ以上ではなかったかとファンの間で伝えられるのが、彼であった。

もともと脚元に不安のある馬だったのだろう。デビュー前の調教で大怪我を負う。
左前肢関節の損傷。関節包内の滑液がなくなってしまった、というのだから、尋常ではない。
滑液は、関節を動かす際の潤滑油の役割を果たす。それがないということは、走る度に前肢の骨と骨がぶつかり、激痛を伴う。当然のように球節炎や脱臼、骨折の原因にもなる。デビューできるかさえ危ぶまれるほどの怪我であった。

故障は残念ながら完治することなく、遅れに遅れて3歳7月にデビュー。鞍上は1ヶ月前にデビューしたばかりの新人、小安和也だったが、能力試験はD1000mを持ったままで25馬身ぶっちぎり。
その後も、ろくな調教が出来ないにもかかわらず、小安騎手を背に楽勝が続く。道中は馬なりのまま、直線でゴーサインを出すだけで、追うこともしなかった、いや出来なかった。
レースの後は、故障した左前肢が必ず腫れ上がり、動くこともできず、肢を地面に着けることさえままならなかったという。常に脚元と相談しながらの発走だった。
休み休み使いながら、3歳4歳を4戦づつ、8戦8勝。見た目には馬なりの圧勝の連続だった。この頃から期待の素質馬として、彼の名が知られるようになっていく。佐々木騎手に乗り替ったのは、5歳になってから。そして10戦め、その年の金盃、初の重賞挑戦。相手は、1歳下の「快速の逃げ」南関二冠馬ブルーファミリー、東京ダービー馬プレザントら。彼はそれでも、単勝1番人気に推された。
レースは直線やや競り合うものの、やはり持ったままでブルーファミリーを3/4馬身交わし、重賞初制覇。51kgの軽ハンデながら、当時の時計のかかる大井のコースを、2000m2分4秒台で走ったのは、彼だけであった。
ただし、このレース後、彼は6ヶ月の休養に入ることになる。

そして11戦め、アフター5スター賞は、彼の生涯最高のレースと言われている。
絶好調の上がり馬グローリータイガーと、JCに飽くなき挑戦を続けた「大井の将軍」ハシルショウグンを、直線気合をつけただけで3馬身突き放す。11連勝。デビューからの11連勝は、南関東タイ記録であった。
しかしやはり名だたるオープン馬との競り合いは彼の肢に多大な負担を来したようで、左前肢の状態は、今までにも増してひどいことになっていたらしい。腫れで肢を地面に着けることができない。
南関新記録、そして中央挑戦への期待と、ヒートアップするマスコミやファンの裏側で、必死の看病が続いた。
そして2ヶ月後。冒頭のレース、グランドチャンピオン2000へと、彼は出走していく…

誰も彼を殺そうとしてレースに送りだしたりはしない。むしろスタッフと彼自身の辛抱と情熱があってはじめて、いつ能力喪失してもおかしくない状態のなか、ここまでの戦績をあげることができたのだ、とは思う。
しかし。彼の最期のレースの出走時すでに、肢の状態が思わしくないことを、実は噂されていたのだ。
せめてもう少し脚元がよくなるまで、長期の休養はかなわなかったのか。あるいはアエロプラーヌやコトノアサブキ、フェートノーザンなどを再生させた実績のある笠松や道営、岩手の「名人」たちに、その手を委ねる勇気はなかったのだろうか。

当時の南関はレベルの地盤沈下が激しく、中央で好走できる馬がほとんどいなくなり、そんな中で久しぶりに誕生したスターホースが、彼であった。「プライドの大井」とも揶揄される主催者の思惑が絡んだ可能性は否定できない。
あまりにも生き急いだ彼のことを思うと、今でも口惜しくてならない。

彼が死んだ年に、同い年の浦和所属馬がひっそりと中央に転厩、翌年のマイルCSと、翌々年の安田記念を勝った。トロットサンダーである。安田記念は、彼の中央参戦の最終目標として、秘かに狙っていたレースだった、という噂がある。


ツキノイチバン  1989.3.8生 1994.10.27死亡
         12戦11勝1競争中止
         金盃  アフター5スター賞


散文(批評随筆小説等) 「名」馬列伝(4) ツキノイチバン Copyright 角田寿星 2009-07-03 00:11:40
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