ケンディ

愛について

愛は芽生えるものです
脳内に芽生える肉の芽です 肉芽腫で、
腫瘍なのです
だから愛は気づかぬうちに脳の中に
根付きます
密かにあなたの一部と化します
愛という毒の芽は、あなたの生気を
吸い取り、
寄生し、
大きくなっていきます
脳に寄生するこの毒の芽は、
痛みの感覚を持つ虫となります
この時点でもう手遅れです
この虫はわがままに暴れ回り
毒を吐き散らし、脳に苦痛を与えます。
この虫を取り除こうにも、諸君の脳の、
体の一部となっていて、取り除くことは
できません。
そしてついには、愛が脳を支配する

そうなる前に、愛は削除され、再び
ダウンロードされるべきものです
愛は削除とダウンロードを繰り返されねばなりません


愛と絶望

ジュゼッペ・アルチンボルドをご存知でしょうか。
マニエリスムの画家といわれ、ルネッサンス末期に
あたる時期の人です。アルチンボルドの絵は奇妙です。
魚の寄せ集め、あるいはかぼちゃなどの野菜の
寄せ集めを描いています。
それは人の顔に見えるが、極めて
醜悪かつ不気味です。
人の顔をしているのに、どこか
微笑を湛えた肖像画なのに、
なぜ醜悪で不気味な印象を与えるのでしょうか。

それは絶望が表現されているからです。
鑑賞者は、アルチンボルトの絵に、血の通った
人の顔を期待する。だがその期待は裏切られ、
ただ醜悪な物体の寄せ集めが
そこにあるだけということに気づく。
人間の顔の絵だったはずが、その絵の中には
人間など一人としていない。これは真の絶望です。
死んで腐り、原形をとどめない人間の顔を
見たときと同じ印象です。

エピソードをひとつ挙げてみましょう。
昔、鳩に餌をやり喜んでいる老婆を
見て思ったことがあります。彼女は子供に対する
母親のような愛情を発していました。
ほほえましいと思うでしょう。
だが私は、鳩の目を見て、今述べた真の絶望を
感じました。鳩には愛情を感じる
高度な脳はありません。ただ餌の出てくる所に
反射的に寄って来ているだけです。
老婦女に恩も愛情も感じていません。
鳩にとってみれば、老婆は餌を周期的に
撒き散らすボックスにすぎないのです。
鳩は生みの親と交尾し、仲間の死骸を喰らいます。
そんなものに情愛の幻想を抱いている老婆。
この関係を知ってしまうことが、
私のいう真の絶望です。老婆は
この関係を見ない。
この関係を見ない限り、老婆の愛は続きます。
愛と絶望は表裏一体です。それだから
愛の対義語は絶望なのではないでしょうか?

愛する者は、老婆と同じく、絶望に
取り巻かれています。愛は、絶望の海に
漂うアメーバの細胞膜です。薄くて、そして危うい。
いつでも破裂し消え去る可能性をもっています。
愛の細胞膜を硬直させて生きている者もいます。
高野聖は、飼っていた鹿が死んでしまい、
悲しみに暮れ、その鹿の皮を着て歩きました。
ある老母は、死んだ子の亡骸を背負い
歩き続けました。腐りきって骸の
腕がちぎれてしまうまで。

愛は削除され再びインストール
されねばなりません。
愛と絶望は表裏一体だから、愛が
削除されるたびに絶望に苛まれます。
愛の削除に失敗すれば、我々悲しき機械たちは
エラーを起こすのです。削除が
うまくできずエラーを起こしやすい機械は、
削除とダウンロードをできるだけ早いテンポで行うこと。

ところで、少年期の私は怖がりでした。
マンションの9階にある3つの部屋を全て
借り切っていました。離れの部屋に
寝室がありました。離れの部屋は
ほとんど誰も使わないのに、
無駄に広く、暗く、怖かった。
今でも当時の絶望の体験が
夢の中で再生されます。
夜、離れの部屋に行きました。
その部屋に行くのはとても怖かったですが、
ベッドには母親が寝ているものだと
思い込んでおり、ベッドにたどり着くまでの
辛抱だと思っていました。私は
寝室に入りました。布団は人が入っているような
ふくらみをしていました。そこに母親が
寝ているにちがいないと期待しました。
私はベッドに飛び乗りましたが、
そこに母親はいませんでした。

温かいはずの布団は冷たかった。弾力を
期待していた布団のふくらみは、押し
つぶされて消えました。全てが非人間的でした。

期待していたぬくもり。期待していた肉の弾力。
その期待の崩壊は、当時のベッドの上
ならずとも、いずれ母の死とともに訪れるでしょう。
かつてのぬくもりが、白い灰になる時が
必ず来る。それは肉体だけの話では
ありません。全ての関係が白い灰になる時が
必ず来ます。

この真実を、愛と絶望が表裏一体
ということを、常に忘れぬこと。


愛の練習
きめ細かく、愛をダウンロードし、すぐに
削除する――これを絶え間なく反復し続けること。
これを愛の練習と私は呼びたいと思います。
先ほどの鳩に餌やる老婆を思い出してください。
先ほど私は彼女の
不健全さ――絶望をわきまえぬ愛の不健全さ――を
示唆しました。だが捉えようによっては、彼女は
絶望をわきまえ、軽い愛の練習を
していたのかもしれません。愛の練習は健全です。

16世紀イタリアのチーズ職人メノッキオは、
チーズができあがっていく中から湧くうじ虫を、
天使と喩えました。彼のように物を見なさい。
あなたの目の前にある椅子、己の指先、
けなげに這い回る羽虫。これらを可愛く思いなさい。
このように愛の練習をすること。


散文(批評随筆小説等)Copyright ケンディ 2009-06-12 21:14:52
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