詩は軽蔑に値する
非在の虹

詩は在る、として詩を書くとはなんだろうか。
書いたものが詩である、というのはどういう状態なのか。
詩人をどう定義すべきか。

それらの問いは、今や意味をなさないのではないだろうか。
なぜなら詩の無効を感じるからだ。
そのため詩についていつも絶望的な気持ちでいる。
ながくその気持ちは変わらない、あるいは変えようにも変わってくれない。
自分自身のせいか、あるいは自分の外部に原因はあるのか。
それは詩という文学形式の内部か、外部かと言い換えてもいいのではないか、と思えるが、聞かれれば外部にある、としか言えない。

ひとつはかつて読んだ中上健次のエッセイだ。そこで彼は言う。
「詩は軽蔑に値する」と。

この中上の提言に「詩人」の側から意見が出されたならば、こんなにも絶望はしなかっただろう。
ひょっとして、反論は出たのだろうか。中上と詩人某との論争は行われたのかもしれない。

しかし、今はあるいは今も詩は激しく退廃的である。
私はいかなる詩も、貴族趣味の空間把握法とでも言うしかないものになっていると思う。
「ムードの修辞法」と言ってもいい。
詩とは昔からそのような物であり今後もそのような物である、とは言えない。
詩は行為のみ残る。とひとりごちても開放はなかろう。

詩が現在にこんなにもそぐわず、しかしなおもそのようなものを書こうとし、詩と呼べるかに一喜一憂するしかないとは、こんな中世の貴族のようなデカダンスに浸っていていいのだろうか。

どこかで誰かが考えをめぐらし、解決の端緒を開いているかもしれない。
その、どこかできっと誰かが、という一点でのみ、この瀕死の文芸の形式に愛情を寄せ続けるちからになっている、と言ったら、私はあまりにも傲岸不遜であろうか。


散文(批評随筆小説等) 詩は軽蔑に値する Copyright 非在の虹 2009-05-28 17:02:34
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