陽炎
柊 恵
私は二つの中国の面を持っている。
父の形見、とても大切なものだ。
陰は白、陽は黒。
こうして手にしていると不思議な力、大きな力を感じる。
深い謂れを父から何度も教わったのだが…、
白面をチナの棺に納めよう。
ギー!ギー!ギー!
うるさい鳴き声に起こされる。
椋鳥が軒下に巣を作っているらしい。
これで3日連続か?
毎日、同じところで目が覚める。
夢の中では確かに存在する「中国のお面」。
当たり前過ぎるほど知っているのに思い出そうとすると記憶は消える。
命と誇りのお面…。
「何か考え事?」
妻の声に我に返る。
「あ…いや、気になる夢を見てさ」
「夢は夢よ。あなたはいつも、そういう事を気にし過ぎ。
トースト冷めちゃうよ」
「……うん、行ってきます」
晴れないのは気分だけではなかった。
玄関を出ると外は濃霧だった。
「うゎっヤバい。これは電車遅れるな」
駐車場の影、霧の中から小さな人影が現れた。
白く光って見える。
「おはようございます!」
こちらに気づいて、元気よく挨拶する。
「おはよう。元気いいね。紅実のお友達かい?」
「はい、小林です。朝、一緒に行く約束したんです」
中学生にしてはヤケに小さい。
「…どこかで会ったかな?」
「あたしも…初めてな感じがしないの」
「じゃあ、同じだね」
可愛いらしく笑う。
(あぁ、やっと会えたね…)
「もっと話したいけど、仕事行くね」
「はい。行ってらっしゃい、お父さん」
晴れ々々とした気分が広がる。
同時に思う。
俺、なんで初対面の中学生の女の子と親しく話してんだろう?
しかも娘の友達と。おかしくないか?
けど、胸に広がるこの感覚は何だ?
嬉しくて涙が出そうなのは。
背景が真っ白な空間、小さな姉妹が仲良く遊んでいるのが見える。
お面を着けたり外したりして、笑いあって。
「二人とも、それは お父さんの大切なお面だから、触ってはいけないよ」
「はい。お父さん」
声を揃えて、お面を私に差し出す。
白いお面の目が光る。
「うゎぁっ!」
今のは何だ。
嫌な汗をかいて飛び起きた。
階段を降りると紅実が居間にいた。
「おはよう」
「あ、お父さん、おはよう」
「珍しいな、早起き」
「文化祭の制作があるの。美術部の」
「こないだのお友達も?」
「うん。小林さんも美術部だよ。…私、あの娘ちょっと苦手」
「いい子だと思うけどな」
「すごく好き嫌いが、はっきりしてるのょ。あれは敵を作るね」
「女の子は難しいなぁ」
「なぜか私に、なついてんだよねぇ…」
そろそろ出勤時間だ。
靴を履いてたら、戸が開いた。
「お父さん!」
驚きの表情が、
満面の笑みに変わる。
「おはよう」
「おはよう、小林さん」
狭い玄関で両手を上げて、なんて素直な喜びの表現なのだろう。
そのまま抱き付いてきそうな勢いだ。
ハイタッチして、
「行ってきます」
「行ってらっしゃい…明後日もっと早く来るね」
「じゃあ明後日、楽しみにしてるよ」
「うん、私も」
紅実よりも私に なついているかも。
「お父さん…」
苦しそうな息を堪えて娘が呼びかけてくる。
「お父さん、お願いが有るの…」
「どうした、チナ?…」
どんな意味の夢なのだろう…。
その中で私には二人の娘がいて、
下の娘は、まだ5才くらいで、
おそらく助からない。
消え往く命を見守るしかできない。
こうして目が覚めても悲しみが止まない。
妻もまだ寝てる。
早いけれど、起きてパソコンに向かった。
ニュースとか見ていたら、呼鈴が鳴った。
小林さんだった。
「おはよう。紅実を起こしてくるから、…あ、PC使ってて良いよ」
「あ、いいです。紅実ちゃん起こさなくても。ちょっと早く来すぎちゃった」
「別に構わないけど、朝は食べてきたかい?」
元気無く首を振る。
「ご飯と納豆で良い?今、目玉焼き作るから」
「ありがとうございます」
ものすごい勢いで食べ始めた。
「おかわりする?」
「すいません…」
「遠慮いらないから。育ち盛りだもんね」
「お父さん…」
「どした、泣きそうな顔して」
「昨日の夜から、何も食べてなかったんです。悪い子だからって…」
「なんだそれ?酷いな」
「お父さん、優しい…」
小林さんは、ポツリと話し始めた。
まだ自分が小さな頃に両親が離婚したこと、
小学生の頃にお母さんが再婚したこと、
ちょっとしたことで継父は腹を立てて、怒鳴りちらすこと。
罰としてご飯をもらえないこと。
いろんな罰が有ること…。
多感な時期を、何て残酷な。
悲しい。
この子を地獄から救わないとならない。
「小林さん、おじさんが解決策を見つけてあげるから」
「そんなこと…出来るの?」
「小林さんのは、児童虐待にあたるから、国が保護してくれるよ」
「ホントに?」
「クラスは紅実と一緒だよね?フルネームは?」
「小林千奈です」
児童相談所に虐待の通報をした。
紅実の話だと、すぐに相談員さんは来たらしい。
「小林さんは保護されたの?」
「ううん。両親が呼ばれて警察に叱られただけらしいよ」
「そうなんだ…小林さん、心配だね」
大勢の人が泣いている。
肩を寄せあって座っている。
どうやら、お葬式のようだ。
クミョンが黒いお面を棺に納める。
中には私が居た。
日曜日に小林さん…千奈が遊びに来た。
近頃では紅実と、すっかり親友になっている。
やはり心配した通りだった。
千奈は継父から、児童相談所に相談したことを責められていた。
「お父さん、どうして保護してもらえないのかな…」
「千奈のは精神的虐待の色合いが強いから…緊急性が低いと思われてるのさ。
命の危険が有るとかの肉体的虐待は、隔離の為に保護されるけど…」
千奈は息を呑んだ。
「本当のこと話してみるよ…」
「ん?…」
「ねぇ、お父さんのこと、本当のお父さんと思って良い?」
「千奈は昔から本当の娘だよ。霧の日に会ったこと憶えているかい?
あぁ、やっと会えたって思ったんだ」
「お父さん…そうだよね、そうだよね!やっと会えたんだよね。
本当の親子だよね!」
抱き付いてくる千奈を、強く抱き返した。
「クミョン、生まれ変わっても仲良くしてね」
掠れた声でチナは言った。
「そんなこと言わないで。いつだって、一番の仲良しよ」
「お父さん、お願いが有るの…」
「どうした、チナ?…」
「生まれ変わったら、…チナをお嫁さんにして」
「わかった。約束するよ。だから、元気にお成り…」
翌日、千奈は保護されて施設に移された。
継父は逮捕され、裁判で実刑となった。
千奈が何をされてたかなんて知りたくない。
十年余の歳月が流れた。
紅実が高校を卒業すると、妻は実家へ帰って戻って来なかった。
春の日溜まりのような日々だけが残った。
千奈は施設から高校へ通って、就職したと噂に聞いた。
結婚して子供も産まれたらしい。普通の幸せを手に入れたなら何よりだ。
陽炎が揺れている。
公園で小さな女の子が遊んでいた。
チナに似ている。
目が合うと、にこっと笑った。
「お父さん!」
振り返ると若い女性が立っていた。
驚いた表情が、
満面の笑みに変わる。
スラッと背が高くて、
若いお母さん風だけれども間違いない。
「千奈、久しぶりだな…」
「やっぱり お父さんだ。変わってないね」
「千奈の娘かい?」
「うん。。玲奈、ご挨拶して」
「幸せそうで、何よりだ」
「お父さんのお陰よ。でも…離婚しちゃった」
小さく舌を出す。
「あ…俺もだよ」
「お父さん、今、わかったよ。私達の血が繋がってなかった訳が」
「約束したもんな」
「えへへ」
千奈は照れくさそうに、心から しあわせそうに笑った。