荒地にて
徐 悠史郎




 いま、北川透の『荒地論』を読んでいる。なにをいまさら荒地派などと。。。と思われる方も多いかもしれないが、WW?敗戦直後の日本において<詩を書くということ>の意義を、それを単なる個人的な創作への欲求や衝迫の側面からでなく、個人を取り巻く社会、さらにはその社会を、他ならぬ詩作者としての<個人>――それはなにはともあれ個的な創作への欲求や衝迫に駆られている者である――を否応もなく取り巻くようにして現前せしめた近代日本史(⊇詩史)の円錐の頂点として<いま・ここ>というかたちで捉えながら論求してきた荒地派の行動を見ていくことは、<詩において反戦する>という問題領域の中で詩について考えていく際に、非常に有効な足がかりを「わたしたち」に与えてくれるように思われる。
 『荒地論』は1980年にひょんなことから発生した北川氏と詩人会議との論争を契機にして書かれた。ひょんなことというのは、「現代詩手帖」80年4月号での鮎川信夫と北川氏との対談に対する詩人会議の面々からの抗議や非難のことで(これは詩人会議の人たちからすれば逆に「ひょんなことというのは詩手帖の鮎川・北川対談での黒田三郎に対する否定的な言及のこと」ということになるのだが)、その詳しい内容については私がここで散漫に書くよりも、各々の原典をあたってみるほうが間違いがない。ともかく言えることは、このとき詩人会議との論争の中で浮き彫りにされた、というよりもむしろ北川じしんが詩人会議の抗議や非難を論的に破砕するために積極的に展開・披瀝した自己の荒地派に対する詩史的な<捉え>の目線が、この『荒地論』の中では分りやすく示されているということである。
 詩にとっての戦後の出発点をどう据えるのか?――こう問うたとき、同人誌「荒地」の面々には、「詩」というものが、いかにも頼りなげな、はかないものであるかのように感じられたのかもしれない。いっぽう詩は本来、頼りなげで、はかない、幽玄(ほのか)な出来事ではあるのだろう。詩のことばは廃墟に佇む亡霊のようにたち現れ、またむなしく消え去っていくものだという風に言う人もいる。その是非はともかく、だが荒地派の思考のアクセントは「詩」にあるのではなく、その詩というものを今まさに書こうとしている「われわれ」の方にあった。本来的な<詩>、なるものについて論ずることよりも、「われわれ」にとっての<詩>、それがどうあるべきか、<詩を書く>というときに請け負わなければならない(と義務形で考えられていた)近代史において、その円錐の頂点に立つために必要なパワーポイントとして、詩はどのようなものでなければならないかという風に、荒地派の思考の水脈は流れていた。


   The sense of danger must not disappear :
   The way is certainly both short and steep,
   However grdual it looks from here ;
   Look if you like, but you will have to leap.



   危険の感覚は消え去ってはならない――
   道はたしかに狭く そして険しい
   しかしここからだとなだらかに見えるだけ。
   ごらん それもいい、でも君は跳ぶんだ

                  (W. H. オーデン「跳べ、見る前に」第一連)


 WW?後のイギリスにおける無気力と、因襲に緩慢に束縛された閉塞の中でオーデンが試みた跳躍の困難さについては、ここで述べることを省こう。それは今の私の手におえないことでもあるし、ここでは荒地派が「戦後」のイメージを確立するために援用したオーデン・グループやT. S. エリオットの(詩の意味での)行動が、荒地派の活動(もちろん、詩の意味での)の中に響かせていたものについて、端的に指摘するだけでよいと思われる。「have to leap」、跳ばなきゃいけないための、その跳躍の基点たる踵が接するべき足場をどこに<求めるか>。。。その希求のアクションが荒地派の詩的活動のすべてであり、その結果、何が足場として<見出されたか>が、日本という所与の条件のもとで詩を書くというときに、つまり現代という円錐の頂点に立つという醒めた(冷めた?覚めた?)意識のもとで詩作するというときに、是非とも振り返っておきたい地点のひとつだと、私は指摘したい。
 上に掲げたオーデンの作品の題名「Leap Before You Look」(跳べ、見る前に)自体、英国の諺「Look before you leap」(跳ぶ前に見よ)を転倒したもので、いかにもイギリスらしいこの諺をもじることで、因襲への批判、揶揄、破壊、再構築への志向といったものが現れていると思う。この諺の本義は辞書によると「実行の前にまず熟慮。転ばぬ先の杖」となっている。「杖を手にするより前に転べ」?諺の諭す内容は違うが「石橋を叩いて渡る」をオーデン式にもじったら、「その石橋、叩き壊して渡りましょう」ぐらいになるのか。それはもはや<橋を渡る>という安全な行為ではなく、それこそ「危険」な跳躍になる。
 荒地派がどんな具合に跳躍したかは個々の作品が示している。跳ぶときの足場については多くの詩論や論考が築地した。そしてそのうえで想定された着地点はどこであったか。。。同人誌「荒地」は長く大きな影響を詩に関わる人たちに与えてきた。じっさい、作品もいい。そしてなによりも敗戦という状況を踏まえて日本で詩を書くということについて、深く格闘し、しかも政治的言動や党派的活動に(少なくとも「荒地」解体までは)流されなかった。だがもう<戦後>にカタを付けたいという内的・外的要請の中で、荒地派は歴史化され、名作のように戦後詩を読むということがなされている。それはそれとして一つの現象として見るべきだ。だが、荒地派の活動は本当に、いまのわたしたちにとって用済みのものなのだろうか?そこで掲げられた理念や詩への態度は、もう不必要なものなのだろうか?
 荒地派の活動は、例えばウィトゲンシュタインの梯子のように、打ち棄てられるべきものではないのではないだろうか。それはまだ入用な梯子なのではないか、という気がしないでもない。


   ‘Oh, keep the Dog far hence, that's friend to men,
   ‘Or with his nails he'll dig it up again !
   ‘You ! hypocrite lecteur !----mon semblable,----mon frere !’


   もう犬を近づけないように、あれは人間の味方
   でないとまた屍体を爪で掘り返すだろうからね!
   きみ!偽善の読者!――わが同類、――わが兄弟!

                (T.S.エリオット「荒地」より)


 つまり、作中「きみ!」と遠くから呼びかけられるわたしたちは、この大文字で記された「犬」と、いままたじゃれあっているのではないだろうか。

 北川『荒地論』に次のような一節がある。


   しかし、綱領や規約や<一般報告(運動方針)>などで保証された、一つの
   政治的共同性が、 批評対象に対する共同の評価をつくり出すとき、そこに
   いかに文学的粉飾がまとわれようとも、政治的権威や時代主義的な心情が
   生み出されるのである。(思潮社版65頁)


 このくだりは詩人会議との論争において、北川が相手方の「綱領や規約」から抽出されてくる膠着した主張の内実について批判を加えている部分である。ここでの北川の立場がかならずしも<政治から自由な>立場なのではなく、党派の約束事として一般化された「綱領や規約」なるものから自由な立場なのだという点はひとまず押さえておきたい。そしてまた、<いま、日本で詩を書くということ>という問題領域において、私が北川のこの指摘(呼び捨てにして申し訳ないが)からひとまず抽出しておきたい枠組みは、次のようなものだ。
 たとえばここに今、ひとつの<反戦詩>がある。この<反>の力場を構築し、維持するために使用されるさまざまな詩の素材のもつ性格は何か。詩作者は<反>の立場を取るために、一旦は反対の対象である「戦」なるものを、どんな形であれ肯定的に扱う必要が生じる。それはどういうことか。


   滅びの群れ、
   しずかに流れる鼠のようなもの、
   ショウウインドウにうつる冬の河。
                   (北村太郎「センチメンタルジャアニイ」部分)


   死の滴り、
   この鳶色の都会の、
   雨の中のねじれた腸の群れ、
   黒い蝙蝠傘の、死滅した経験の流れ。
                       (田村隆一「イメエジ」部分)


 いま、どちらも北川『荒地論』の引用からのマゴ引きをした(38〜39頁)。原典では他に三好豊一郎と木原孝一の作品の一部が引用されている。北川の指摘は、荒地派の見ようとしたこのような「戦後」の眺めが、一様に「ヨーロッパの戦後(とくにWW?後のエリオットやオーデン・グループにおけるそれ=筆者補)という、擬似戦後意識のフィルターを通してしかあらわれようもない風景」なのだという点に集約される。だがそのあとすぐに、こうした「擬似戦後意識のフィルターを通して眺められた戦後」を描いてしまった荒地派の面々を、「しかし、この側面を表層を撫でるように否定的にのみ(上二文字に傍点=筆者注)みることはできないだろう。どの詩的時代においても、支配的な時代感情や、それに対応した修辞的な流行現象を随伴させないでいることはむずかしい」と、きちんとフォローもしている。この荒地派同人に大小の差はあれほぼ共通して現れた修辞的現象を、北川はかいつまんで「「荒地」特有の修辞的共同性」と呼んでいる。
 もちろん私は、北川のいう「修辞的共同性」一般が、例えば詩人会議の論客たちが拘束されている「綱領や規約」と同じようなものだなどとは、口が裂けても言わない。荒地派がその成り立ちから不可避的に獲得してしまったあれら「修辞的共同性」と、なにか党派の<中央>あたりから回覧されてくるような性質の「運動方針」とでは、その出自は、全く、根本的に違うものである。見た目ちょっと似てるような感じはするだろうが、この区別については、いま、強調しておきたい。なによりも「荒地」同人たちは、<時代のなかで、自分の言葉で書くこと>のために、苦闘してきたのである。
 ともあれ、私が上記引用の二片から言っておきたいことは、ここでは戦後風景はまったく否定的に、絶望的なもののように取り扱われてはいるが、しかし、詩としてはこの風景は非常に肯定的に(つまり、いってみれば効果的に)描かれているのだということだ。
 荒地派は、大きなくくりでいえば「現代文明」への批判的関与を出発点としていると言って差し支えないだろう。


   ところで、<荒地>の詩的共同性が現代文明を<破滅的要素>において、
   <亡びの可能性>においてとらえるとき、そこに同時に、そのような文明に
   対する反逆的意志が強調されるに至るのは、論理的必然というものである。
                                   (北川『荒地論』43頁)


 現代文明に対する「反逆的意志」がどのように現れたのかは、個々の作品内部において示されていた。それについては多くの論考がある。彼らが具体的な反戦行動(なんども言うが、詩の意味での)を取ったかどうか、実のところまだ調査不足でなんとも言えないが、ただ、『死の灰詩集』に対して鮎川信夫が(まさにみずからが拠って立つところの「荒地」という視点から)「ぜったいにアンガージュしない」という立場を貫き、また批判的に言及していったということからもうかがえるように、この「反逆的意志」という志向性は、(同人誌「荒地」が解体したあともなお)強固で、徹底したものであったということはできるだろう。
 さて、なによりもまず<時代のなかで、自分の言葉で書くこと>。むろん反戦詩も、そのような絶対条件からまぬがれることはない。反戦という立派な社会的行動をしているからといって、多少弛んだ詩を書いてもいいということはないし、正義や愛(この「人間の味方」たち!)に胸いっぱいに駆られて、自分が思ってもいない、感じてもいないことを書き付け、書いたことをさらに捉え返して一層深く追求していくということもないままにそれを「作品だ」と称することも許されてはいないだろう。ちなみに、「思ってもいない、感じてもいないこと」を言語化することでも作品は成立する(と思う)。だから、そのような性質の詩を書いたからといって「思ってもいないことを書いてしまった。。。」と、悩んだり、罪の意識に囚われるようなことはしなくてもいいと思う。
 詩作者が<反>の立場を取るというとき、それは必然的に反逆の対象と拮抗する態度を取るということであり、その反逆や対抗のステージを、少なくとも一度は承認し、その相手を認めなければならないということである。このとき反逆や対抗の原資になるものが、例えば荒地派についていえば<戦後>の先輩であったところのエリオットやオーデンたちであった。英国のいわゆる「引き裂かれた世代」の思想や詩的イメージを、戦後日本の詩風土に無媒介に移植してくるという行為については、事前の批判的検証の必要があるし、また現に荒地派内部においてもその作業は(彼らが手にした「空白」という詩的遺産からどのように詩を立ち上げていくのかという苦闘の中で)行なわれてもいる。
 ではまた、例えば<いま>、日本において反戦といういわば“土俵”に上がり、詩を立ち上げていこうとする、というような場合、そこに用意される原資とは、どのようなものになるのだろう。たとえばここに今、ひとつの<反戦詩>がある。この<反>の力場を構築し、維持するために使用されるさまざまな詩の素材のもつ性格は何か、という問いが、まさに反戦しようとするそのとき、突如横合いから起こってくる。この問いなくして、反戦詩は具体性を持ち得ないだろうし、ただ単に思ったことや感じたことが深められ、作品に再構成されていくということは起こりえない。
 もしこの問い、いくども繰り返されなければならないこの問いを欠くとき、反戦の原資として用意されるものは、(国権の発動たる国際紛争に巻き込まれていないという意味では)平和このうえない日本の、そこらへんに散らばっている緩慢な自由、虚飾をまとった正義、被抑圧者を顧みたがらない平等、相互不信を拭う気を持ちあわせていない愛、「反戦じゃなくて脱・戦争だ!」というあまりパッとしない思いつき(可能性は感じるが)、そういったものの寄せ集めになるだろう。こうしたものが、なんの疑いも問いもなく、無媒介に詩の中に嵌入されていくだろう。
 自由や平和を喜ばない人はいない。そして誰もが愛を欲し、平等であることを求め、自己の行ないの正しからんことを願う。だがそこに問うことや捉え返すということがなければ、それは、はっきり言おう、そこに何の疑いもさしはさまないという点において、どこかの、なにか党派の執行部が回覧してきたお仕着せの綱領や規約、窮屈な運動方針といったものと、さほど変わりはなくなってしまうだろう。このような場で製作される反戦詩に生彩がなく、現実感がなかなか伴わず、どうかすると教科書のような平和や正義に流れていってしまう傾向があるのは、むしろ当然のことだ。
 いくども問い、疑うということ。疑うというのは、もちろん邪推ということではなく、いま目の前に広がっている常識や定着した観念を、もういちど真剣に、真摯に、強烈に見直し、捉えなおすということだ。また、既得権益や役得に伴う利権を温存したまま行なわれる「抜本的な改革」などというものでもない。だからそれは時と場合によっては体制転覆(この不穏な言い方がまずいのなら体制の「更新」、大規模リニュ、ぐらいに言っておいてもいいが。。。)をも視野にいれる営みともなろう。かつて、この危険な問いを封じ込めるために「グラウンド・ゼロ」が措定され、それはほぼ政策的に承認されている。ここでわたしたちがするべきことは米国政府を非難することではない。消防士と肩を組むジョージ・W・ブッシュJrさん(57)を非難したところで、湾岸戦争で油まみれになった水鳥を憐れむぐらいのことにしかならない。この場合わたしたちは、すべての問いと疑いを封印し、そのなかでなお問いを解き放とうとする自由な精神を白眼視し、疎外しようとするファシズムを、批判するべきである。
 そしてまた、荒地派も戦中から戦後にかけて発生したひとつのグループ(ただし、後進に大きな影響を与えた)に過ぎない。そこで現れた数々の主張もまた、問いの対象であり、現在という円錐の頂点から、いや逆に現在を円錐の頂点と意識するには、それもどんな円錐にするかという問いの水脈を含みながら、批判的に、飽きることなく幾度も捉え返す必要があると思う。なぜなら荒地派の経験の中には政治的暴圧体制への非妥協的な姿勢の固持や、『辻詩集』参加者が戦後になってどんな納得のいく申し開きもなく『死の灰詩集』に関わるといったような欺瞞への拒否の精神があるのであり、これに類似した状況が今後も二度と起こらないとは限らないからである。
 これは周辺状況への問いということにとどまらない。むしろ状況において振舞う自己自身への、なによりもまずなされるべき問いでもあろう。そしてまた、このエセーへも加えられるべき。。。



 北川透『荒地論』を、私はまだ読み始めたばかり。引用や言及が本の最初の方に限られているのはそのためだ。もののついでにこの本の最初の一行を引いておこう。


   なんとも息苦しい、いやな気分だ。


 その後に入沢康夫と谷川俊太郎との対談が引き合いに出され、北川の次のようなぼやきが入る。


   わたしのいやな気分というのも、この入沢の感想と重なる。ただ、彼の言う
   《「ちょっとやさしくて」「ちょっと悲しくて」「ちょっとはみ出して」、結局うんと
   保守的で、本当にはみだした者には惨酷》な時代がきているというのは、別
   に詩の世界に限らない。《目の敵》にされているのは、ものを根本から考えて
   いこうとする態度であり、既成の規範の拘束力を断ち切って、自由な発想や
   思考をしようとする態度についてでもある。


 これは今からおよそ20年ほど昔に書かれた文章だが、その頃の北川氏(あんまり呼び捨てにすると悪いような気がして)の心境や雰囲気のようなものが、なんとなく伝わってくるような感じがした。
 「本当にはみだした者には惨酷」だった1980年から23年を経ていまは、どんな感じを北川氏や入沢氏は持っているのだろう、などと思ったりもする。
 『荒地論』を読み進む過程で、私の考えもまた、どんどん枝が伸びますように。それから他のいろんな本についても。





散文(批評随筆小説等) 荒地にて Copyright 徐 悠史郎 2003-09-24 01:24:30
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