人が自由を奪われるってのはね、生きていても生きている感じがしないとかそういう体験の恐怖なんだと思う。
石川和広

http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=182801

睡蓮さんの文章を読んで思ったことを書いてみます。
なるほど。セルフ・マスキャリズムについて、勉強になりました。最近石原吉郎という戦時中戦後にソ連の収容所に抑留されていた詩人の本を読んでいますので。

ただ、ひとつなんとなくぼんやりと疑問があるんだけれど。

>どうすればこの呪いを解くことができるのだろう。呪い(のろい)を解くためには新しい呪い(まじない)が必要だ。

そうなのかなあ。まじないで、なんとかなるのかなあって。もちろん呪いとまじないはちがうと思うよ。ただ、そういう魔法っていう感じじゃなくてさ、人間が苦しみや加害や被害から離脱できるとしたらそれはもうちょっとそういう魔術的なものとはちがうもののような気がするんだ。もちろん人間には物語りや言葉は必要なんだ。

けど、くさい言い方になるんだけど、それは「それでも人生にイエスという」ってフランクルはいったけど、じわじわと湧いてくる肯定というか生きている感じであり、それへの信頼であり、それが少なかったりすることが誰でも辛いんじゃないの?つまり自らの生をいろんな事情で肯定しがたいことが、あらゆる被害感情やいじめややっかみや苦しみの根底にあるんじゃないかなと。

すません。曖昧で。話ずれているかな?でもこのまま話すね。
でも、病気でも差別されることでも暴力を受けることでもそうだ。自分が生きていてもいいという感覚が損なわれていることが苦しみなんだと思う。
その人にやさしくできないのは、なぜなんだろう?どこかで、その自分の攻撃性や、自分の傷口に反応しているから、まともにいえないのでは?そんなに一般化してはいけないかな?

もちろんそうだね。そうなんだ。
でも、女性はただただ隷属してきた階級に属していたんだろうかという疑問はある。もちろん女の人同士であれ、男同士であれ、「あの女(男)はダメだ。もっとうまくやれよ」といいあうのはけっこう見てて辛い。男なんかもさ会社でもどこでも「もっと男ならしっかりしろ」っていわれるからなあ。いじめにあったら「男の子なんだから反撃しなさい」とかね。

だからまずそれぞれの性差や階級や国籍なんかで、互いがレッテルを貼り合い、苦しめあうことがある。もちろんこの社会は男原理・女原理みたいなので厳然とできていてそこで差別はたくさんある。それは辛い。

しかしさ、俺は思うんだよ。もう単純にね、男だから、女だからも込みで、でもそれからさらになんか空気がうまいとか、景色がきれいとか、手も足もうごかせない人でもなんか気持ちが伝わってよかったとか、ヘレンケラーがウオーターって叫んだとかそういうさ、どういう身体を持ち、どういう社会的属性にいても、同じようには感じないにしても、存在しているからこそ得られる感覚ってあるじゃんか。さんまの名言に「生きてるだけでまるもうけ」ってのがあるように。いやもちろん人間は必ず死ぬんだけれど。
精神的に苦しんだことがあるなら誰でも(つまりこの世界に生きているたぶん全員)わかると思うんだけど、人が自由を奪われるってのはね、生きていても生きている感じがしないとかそういう体験の恐怖なんだと思う。
例えば俺だったら「先生、僕○○くんにいじめられたんです」っていったらさ、「○○くんは男の子で元気でよい。男の子はいたずらくらいしなきゃ」っていったんだよ。これどう思う?おれ息が止まったよ。つまりもうダメだ。いってもダメだ。ここに自由はない。この世界で一生生きるのかって思ったよ。おおげさかもしれないけど。それから俺も男なら強くなきゃならんのかと思ったりもしたし、今もそうだ。
さらにややこしいのは、それを言ったのが女の先生だった。だから睡蓮さんとは話がずれるけど、俺も女の人のことを対等に見られない自分があるよ。やはり異性ということもあり。でも、なんかまずひとつは「人間しっかり生きなきゃいけない教」みたいのがあるんだよ。世の中は苛酷だからわかるんだけど、全部が全部しっかり負けないようにいきなきゃなんねえ訳でもないと思うし。それと、矢野顕子が「ラーメン食べたい」で、「男も辛いけど女も辛いのよ」って歌ったの。したら何十年もたって、奥田民生がライブでラーメン食べたいを歌って。「女も辛いけど男も辛いのよ」って歌ったの。アンサーソング。これがいいことなのかわかんないけど。でも、以前は男にしっかりせえという圧力があって、それを女が支えなさいっていう社会があって、それからしばらくたったら、女もしっかりせえってことになって、だからそれは誰かにしっかりせえという社会の要請ってなんだろうって。それは俺自身の中にもある不安や恐怖でもあるのだろうか。だからそんな単純じゃないけど、いったん、人という生き物の生存の次元まで話を戻したい気もしているの。


差別や差別を支える社会の感覚ってのは、みながどこかでそういう絶望や息の根を止められる体験に苦しんでいるから、そういうエネルギーを養分として育つ。人間が絶望をもつのを禁じているのではない。絶望があるってことはそれを引き起こす心の、社会の現実があるからだ。つまりいいたいのは、例えば性差を起点として、あるいは同じ性の中で差別があるとしたら、それはそのように強いている現実の力があり、それを私たちはせっせと再生産していて悲しみを増やしている。でも、もしそれだけなら人間は生きられるのかってこと。そういう現実をかいくぐりながら生きていこうとする人間の力、あるいはそれとちがう次元で生きて働く人間の知恵があり、それが救いなんじゃないだろうか。
そして俺は小声で言うけど、もし差別とかそういうものをちがうっていえる力があるとしたら、いやその根底にあるのはそれでも生きているからこの現実が感じられているということへの信憑なんではなかろうか。そこを幾度でも確かめ支えないと脆くも私たちは簡単にいがみ合いの、いやなことだらけの現実に墜落していくのではないか。

俺はその先生は許しちゃいない。けどね。だから睡蓮さんの言うことはなんかわかる。
許せないんだけど、そういう現実があって、俺もそこから逃れられない。けど、だからそこで僕やその周囲の人がより自由によりよく生きられるようにしたいという、そういうちょっと単細胞なお花畑な願望があるってことをいいたかった。俺の場合。

俺は精神病でしんどい時期も長くて、今はましだけども。いやなんか俺も人の狂気やなんかみていらいらしたりすることもあるよ。そら人間は理屈だけで動いていないからさ、だからもうすさまじい喧嘩もするって。俺はすごく喜怒哀楽が激しいから、もう感情的で自分でもしんどいんよ。情けないんよ。でも、そこで今は俺もなんかいい知恵がないけど、ちょっとは互いが互いのさびしさや辛さや、それでもなんとか生きているっていうことで、その上ででも、ちゃんということはいいたいなってところまでいけたらなあと思っている。

主観ってのは大事だ。それは社会が作り出し洗脳した部分も多いわけだけど、でも、自分なりにこう思う、こう感じるってのをどうかなあこうかなあっていろいろ試みながら出していくのが表現ってものじゃないのかな。いや、許しあうっていうきれいごとじゃなくてね。それは一重に実はそれを支えるのは自分が生きていて他者も生きていることへの最低限の一ミリくらいの尊重であり、それをたがいがもつことで世界は支えられている。だからそれがいろんな暴力等で損なわれるということは本人も辛いしまわりも辛い。
私たちがどれだけなにごとへも無力かということが深い絶望や不信や嫉妬や優越を劣等感をみたときに、感じられる。それはこれだけ多くの人が傷つきながら生きているという感覚を呼び覚ます。
でも生きてたらへこたれそうでも、不信や絶望にさいなまれながらもそこからが始まりなんだなって俺は思う。病気になったときはもうダメだとは思ったけどまだ生きているよ。生きてバカ面さらしているよ.あるいはそこから始められない人は誰かが肩を貸さないといけないんだ。ごめんねなんか偽善的な物言いかな。睡蓮さんの文章は論としては変でもないんだけどそこがちょっと閉塞してて、見てて辛いからなんかいいたくなっちゃった。他の人の意見もいろいろあるようだけど、今回睡蓮さんの文章から俺はこの文章をはじめた。


そしてこれは強調したいけれど、これは睡蓮さんの文章に示唆を受けて書いたんだけど、睡蓮さんだけに語りかけているわけではない。睡蓮さんの文章で様々に示唆を受けたことを感謝する。その上で、自分自身に対しても、一連?の件に関して、発言した、あるいはしないつまりはフォーラムを見ている様々な人、その向こう、彼方にある何かに対して語りかけている。だから、かっこつけすぎたかもしれないが、「人間」とか「生存」という言葉を使って、なんとか普遍性を持たせたいとは思った。できてないと思うけど、でも、その人に語りかけるってのはその人の心やその広がりに向けて語りかけることであって、ただその人を特定し、糾弾するものではない。いや俺も非力な一個人だから、単なるあてつけや攻撃になっている部分もあるだろう。この件に関してはいろいろわからんとかいらいらすることもあるんだ。でも、それだけを書いていたら、単なる愚痴。だからといって、その高みに立ち過ぎたら、変だし。あくまで折れ個人の意見を睡蓮さんの文章への言及を通して、なるべく色んな人の心に訴えたいと思い書いた。だって主題自体はどこの世界でも存在する大切なものだもの。その展開のさせ方がいろいろあって困っているんだけど。仕方ねえ。

いや現実的になんかヤナことは多いけど、だから俺もよく怒り悩み嫉妬しするんだから、そこを自分でも感じてて…でもねっていう。


散文(批評随筆小説等) 人が自由を奪われるってのはね、生きていても生きている感じがしないとかそういう体験の恐怖なんだと思う。 Copyright 石川和広 2009-04-09 12:55:47
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