短歌と文法、詩と文法
非在の虹
もう以前のことだが、足立巻一氏の名著「やちまた」をある驚きをもって読んだものだ。
「やちまた」は語学者、本居春庭の評伝であるが、本居春庭とは、本居宣長の長男であり、日本語文法の発見者として初めてそのシステムを表した人である。
いま、発見者と書いたが、文の法則は、当然のことながら、春庭の誕生以前からあり、父の宣長も『古事記伝』を執筆中に形容詞の法則性について予感していたという。
それが、ようやく江戸後期にして一人の国語学者によって「発見された」という事実に、まず驚いたのである。
確かに、日本人は分析的な思考は苦手だといわれる。それにしても、無自覚すぎやしないだろうか。いや、話す、書くという行為は、なにも文法を意識せずとも、ふだんから僕たちは行っているのだ。国語の授業などというものがなければ、だあれも気づきやしなかったかもしれない。それにしても文法など気にせず、営々とあの泰然たる山脈を築いて来た日本文学にもなにかしら驚かされる。
もっとも現代のヨーロッパ的分析思考に慣れきっている僕たちが、驚いてみたところで、お門違いな話だろう。
だが、本居宣長のような、「からごころ」と言って、外国的思考を排除していた家のこどもに、まさに外国的(分析的)な偉業をなす人が生まれたわけだから、幾分の皮肉も感じざるをえない。
日本人が文法に無自覚であるということは、当然のことながら、法則は流動的であるということであり、時代ごと階層ごとに微妙に用法が異なる、といった文法のカースト制も生まれるわけだ。そもそも、単語じたいにテリトリーをもっているのだからこのことは当然の帰結なのだろう。
さて、問題は短歌である。今日、短歌という長命のバケモノはどのように書かれるのだろうか。いや、書くのだろうか。
しかし、僕はもとより歌人ではない、コトバや文章で飯を食ったことは一度もない。まったくのシロートが口幅ったいことを言うには気が引けるので、この文章のはじめに「やちまた」についてだらだら書いたように、どこへ行くかわからない、僕自身の覚書として、書こう。これで幾分ほっとする。
日本人はまことに物持ちがよく、大昔の詩の方法のみならず、音楽、演劇、絵画の分野においても、昔の方法を保存し、再現している。このような民族はそういないのではないか。
しかし、ほとんど死滅したと言っていい詩の形式もある。それは漢詩である。
このように、存続と死滅を分けた要因とは何だろうか。僕は、ことに短歌と俳句が生き続けた理由として、正岡子規の業績が無視できないと思っている。
子規は、古今和歌集を「くだらぬ集に有之候」と言い「小倉百人一首は悪歌の巣窟なり」と、こんにちの僕らから見れば、なんという乱暴なと、後ずさりしそうな、激しいコトバをなげつけ、そしてこの一首である。
瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり
このナイーブすぎる吃音調、上の句の「みじかれば」まで読んで、平安の貴族であれば、愕然として失笑するだろう。いや、意味がわからないかもしれない。平安貴族たちにはこのようなことば使いはしない。
しかし、子規が真のポエジー、より現在の、彼の生から生まれるポエジーを表現するには、上代の人々の約束事である掛詞や枕詞は、なんとしても排除しなければならず、それに対抗しうる調べとして、かくまでもポキポキした無味乾燥の、目に見えるままを持って来ざるを得なかった。
今、調べということを言ったが、これがわたしにとってもっとも重要なこの定型短詩の生命だと思っている。調べとは、音楽と言ってよい。短歌用語はしばしばことを分からなくさせる。その音楽性がポエジーをのせ、ポエジーの構成要素たる思想、感情、思考を人々の心に広げてゆく。
短歌は、単語、韻、律、先に言った調べ、そしてそれらを読解させる方法としての文法によって作られている、と言ってよいが、なんにしても短歌は先ず詩であり、詩以外の何物でもない事から、詩の自由の論理を内包するのだ。僕たちの心、あるいは自我と言ってもいいが、それがある事象に反応しポエジーを発生させるとき、その表出に、単語、韻、律、調べ、文法を駆使するのである。ここに一編の詩が生まれる。あくまでも短歌と言う方法を駆使するのは、僕であって、ポエジーの本質を曲げてまで、韻律や文法に使われてはいけない。使われてしまっては、本末転倒である。
子規ののち、多くの「詩人」がどういう韻律であればわたしは歌えるか、どういう文法であるならばわたしの思想は伝わるかを「歌人」であるべく、血を流してさがし求めた。
伊藤左千夫、島木赤彦、斉藤茂吉、土屋文明、白秋、啄木・・・。
釈迢空、近藤芳美、宮柊二、そして塚本邦雄、岡井隆、また俵万智・・・。
今、こうやって、まだまだ足りないと思いつつ名前を列挙して、僕の文章のみじめさを改めて確認させられる。こんなことを書いていないで、引用すればいいのだ、この文章を多くの近代歌人、現代歌人の詞華集として、僕はこのように書きたいものだ、と言えばいいのだ。それが一番の詩の理解の方法である。
だが、もう少し、考えなくてはならない。
この数日、僕は短歌(と呼ばせてもらっているが)を投稿しているのだが、
読んだ人から文語の誤謬、誤用があると、コメントをもらった。
その人の主張は、
『現代口語の「た」イコール古語・文語の「き(し)」』は、誤謬であり誤用である、ということだ。
僕の作品中、ことに『口語における「た」イコール古語・文語の「き(し)」』の混同した部分は、たびたび注意を受けている。
だが、子規が和歌から短歌を自立させ、現代の定型短詩として成立させるために、多くの約束事を廃し、新たな語法を加えたように、茂吉以降の歌人は多く、この新たな語法(過ぎシ日の歌、選ばれシ勇者)を使っている。もちろん俳人も使っている。
制限された語数のなかで、的確な単語を的確に伝え、なおかつ、その音楽性を豊かにするためである。
さてこれが僕の誤謬とされた一首である。
(A)岩盤に神の指もて刻まれし銀の跡ありかたつむりの栖(す)
(B)岩盤に神の指もて刻まれたる銀の跡ありかたつむりの栖(す)
「刻まれし」を「刻まれたる」にするのが、本来の文法である。(B )が正しいのかもしれない。しかしそれは文法的事実であって、詩の真実では、ない。しかも、いかがだろうか、その人が少なくとも一首の「調べ」に関しては、頓着がないことを示しているではないか。
僕は短歌というツールを使いたいのだ、千年も使っているのだ、現在使えない部分があっても、おかしくもないことだ。
僕が憂うのは、詩人という個人が獲得し、万人が承諾すべき文法というものを、万人の論理で個人を縛る道具にしてはいないかということだ。
このことを詩の自由の論理の放棄というのだ。
そこからはポエジーは生まれない。干からびたアナクロニズムがあるばかりであり、廃墟を見る目が孤独に開いているばかりだ。心ある詩人なら、いや詩人たらんとするならば、けっしてこのぺダンチスムには陥ってはいけないのだ。