分類される、箱詰めされる、そして僕等の元に届く。
岡部淳太郎

 人や物を分類し整理する。そして種類ごとに区分けし箱詰めして、市場に出荷する。人は様々な異なるものたちであふれるこの猥雑な世界を、そうやって分類してきた。そうしないと、世界を捉えることが出来ない。人が地球上に棲息する生命の頂点に立って万物の霊長としてふるまうためには、世界中のあらゆるものを分類し整理する必要があった。時にどのグループにも属さないような中途半端なものに遭遇することもあるが、そういうものも無理矢理に分類して、それでそのことについては済んだのだということにしておかなければならない。そうでもしないと、人は発狂してしまいかねない。世界の混沌をあるがままに直視し、それとともに在るのは、人にとって耐えられないのだ。だから分類し整理し、区分けして箱詰めにして、あらゆるものを同じ属性のグループ同士で結びつけ、世界を整えなければならない。それは、人が生きていく上での根源的な欲求であるといってもいい。
 そのようにして、魚は魚として分類され、鳥は鳥として、虫は虫として、獣は獣として分類され、男は男として、女は女として、有色人種は有色人種として、貧乏人は貧乏人として、弱者は弱者として、分類され整理され、区分けされ箱詰めにされる。人がつくり出したものも、都市は都市として、村は村として、国は国として、それぞれに分類される。小説は小説として、随筆は随筆として、詩は詩として、他のあらゆるものと同じように分類され整理される。
 そして、僕等の元に、分類され整理された上で箱詰めにされたものが届く。僕等はそれぞれがどのように分類されているのか経験によって知っているから、何の疑いも抱くことなく、分類されたものを分類された種別そのままに受け入れる。たとえば「詩」と名づけられ分類された創作物の中にもさらに細かい分類が施され、それぞれに「戦後詩」だとか「近代詩」だとか「女性詩」だとかそれにふさわしいような名前がつけられている。僕等は分類されたものに疑いを持たないから、それらをそれぞれ「戦後詩」として「近代詩」として「女性詩」として、いとも簡単に受け入れる。
 分類や整理というものは、人にある種の安心感を与える。先ほども書いたとおり、人は世界の混沌をあるがままに受け入れることが出来ないから、対象物が分類され整理されているというだけで安心する。人が住む社会自体が整理された場所であるから、人が受け取るものは基本的に分類され整理されていなければならない。もし仮にどの種類にも属さない未分類のままで放置されているものが人に与えられたなら、人はそれを懸命になってどこか適当な場所に分類しようとするだろう。しかし不幸にも(と言うべきか)、それがどこにも分類しきれず、どこにもうまく収まらない場合、人はそれを、分類されずにそのままの姿で残ってしまったものを、徹底的に無視しようとするだろう。人にとって世界のすべては整理されていなければならないのだから、分類しきれずに残ってしまったものなど恐怖以外の何者でもないのだ。だから人は、分類されないものをまるではじめからこの世になかったものかのように扱う。たとえそれが社会に容れられないために放置されてしまったひとりの人であったとしても、人は(あるいはその背後に世界を従えた人は)彼を放置し無視し、人ではないものとして扱うに違いない。社会に容れられずに苦しんでいる当人の心の裡を見ないことにして。
 人のそのような分類や整理への欲求は、ある種の強迫観念じみている。たとえこの世に人類が存在していなくても、世界は変らずにあるのだし、人がどんなに懸命になって分類し整理しようとも、世界の側は時にそんなことにおかまいなしにあるがままで存在してしまう。言ってみれば、人が世界に施す分類や整理というのは一種の虚構である。そのことに夢中になっている人は認めようとしないだろうが、やはり世界は人の手を離れてもそのままの姿で存在しうるのだ。
 たとえばここに「詩」として分類され、さらにその中の細かいジャンルとして「近代詩」や「戦後詩」や「女性詩」として分類されたものがある。先ほども僕等が分類し整理し、箱詰めにして提供し、疑問なく受け取っていたものだ。これらのそれぞれに細かく区分けされたものの本質はどこにあるのか。それぞれの分類の中に、「近代詩」や「戦後詩」や「女性詩」の中に本質があるのだろうか。いや、決してそうではないだろう。それらは便宜上このように分類されてはいるものの、それらの分類の中にはほんの少ししか本質を滲み出させていない。もっと大きな枠の「詩」という分類の中にも少し本質が滲み出しているが、元はと言えば、これらはみな「世界」がつくり出したものだ。それぞれの書き手がこれらの詩を書いたという事実はあるものの、人もまた世界の産物であるのだから、その本質のすべては「世界」の中にある。細かい分類や人のそれぞれの心や頭脳の及ぶ範囲を超えた「世界」の産物。だからこそそれらは生まれうるのだし、この世界の中で存続しうるのだ。だが、もしこれらの詩を書いた書き手が、分類されたジャンルに忠実すぎたとしたらどうだろうか。それは狭い場所の中で閉じたものになってしまうだろう。あるいはもっと細かく分類して、たとえば「女性詩」の中でもセックスなどのエロティックなものに焦点を当てたような「女『性詩』」とも呼びうるような詩の場合、もっと狭い範囲で閉じてしまいかねない。自らの言葉を語るのに急なあまり、それを眩しく見上げるしかすべのない者がいるかもしれないという可能性に思い至らないということになってしまいかねない。詩に限らず何であってもそうだが、自らを限定させることは人を盲目にする。よく見れば気づくものが見えなくなってしまう。分類されたジャンルの中で安住してしまうと、未来もその方向だけで限定されてしまうのだ。「近代詩」や「戦後詩」というのは時間的区分であるのでどうしようもないし、その現場にいた人の多くはもうこの世にない。だが、「ネット詩」や「女性詩」や、あるいは「ライトヴァ―ス」でも「現代詩」でも、もっと曖昧な「人の心に響く詩」や「わかりやすい詩」でもいいが、それらの分類にあまりにこだわりすぎるのもよくないだろう。それでは視野が狭くなるし、未来が閉ざされてしまう。「ネット詩」や「女性詩」ではなく「詩」を。もっと言うならば「世界」の中から生まれる「詩」を目指さなければ、結局は小さな場所で大騒ぎしているだけで終ってしまうのだ。分類や整理は便利だし親切なものであるが、それによりかかってしまうと見えるものも見えなくなってしまう。それは書き手にとってもそうだが、受け手にとっても、これは「戦後詩」、これは「ネット詩」、これは「現代詩」、これは「朗読詩」というふうに、あらかじめ分類されたジャンルに忠実に受け取ってしまうと、その詩に対する正当な評価が出来なくなる恐れがある。また、詩がそうした細かいジャンルの中で安住してしまえば、詩から普遍性を奪うことにもなりかねない。それは受け手と書き手双方の問題だ。この詩はこのジャンルというふうにあまりにも決めてかかりすぎると、詩にとって不幸なことになりかねない。本来、「戦後詩」も「現代詩」も「女性詩」も「ネット詩」も、それらの分類されたジャンルにのみ存在するのではなく、もっと大きな「詩」という区分の中で存在するはずなのだから。
 人にとって、世界が分類されないままで眼の前に横たわっていると感じるのは恐ろしい。だが、混沌を混沌として直視することで、見えてくるものもあるのだ。また、混沌をあるがままに感じ取ることは、創作をする者にとって時に有益でありうる。なぜなら、既にあるものとしての分類を無批判に受け入れるのではなく、自らの力で混沌を整理し命名することが、創作者としての成長にもつながるからだ。
 人よ、混沌の中に身を投げよ。そして、その中から自らの手で貴重なものを掴みとれ。外から押しつけられるのではなく、自らの意志で、自らのために、分類し整理してみよ。そうして自ら区分けし箱詰めしたものを届ける先は、他の誰でもない自分自身だ。それを自らに向けて届け終った時、あなたの中にはふたたび混沌が渦巻くだろうが、それはその中からまた何かを生み出すための混沌だ。それは世界の汲めども尽きぬ謎を、それゆえに魅惑的な姿を見せる謎を、あなたに解き明かさせるために存在する混沌だ。ああ、この素晴らしい混沌の世界よ。世界はそのままで淫らであり、すべてが混じり合ったその混沌は、予言のように美しい。



(二〇〇九年三月)


散文(批評随筆小説等) 分類される、箱詰めされる、そして僕等の元に届く。 Copyright 岡部淳太郎 2009-03-31 08:43:30
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