超真理男兄弟[場面1−1]
国産和風モモンガ

 勢いよく飛び出したらいきなり死んでしまった。
 あっとういう間にひとり減った。
 足元は石のようなレンガのような堅いもので出来ていて、いくら踏みつけても高いところから落ちても傷ひとつ付かないのだった。千切って散らしたような大きな大きな雲がずっと空から見下ろしながら後をついてくる。その雲が浮かぶのはまじりっけなしに単色の空色で、雲がどこかへ消えてしまったら海と見分けがつかなくなるくらいだった。ざっと見たところ殺風景で、遠くの一点を見つめると両側に背丈くらいの木々やサボテンが目に映るから、環境はそれほど悪くないし息苦しくもないとはいえ、ひとつを通り過ぎると忘れたころにまた突然現れてそれを通り過ぎるとまたひとつ視野の切れ目から急に出てくるといったみたいに、点々とまばらに植わった木々やサボテンは一生懸命走っているとちょっと驚く。何の邪魔にもならないとはいえびっくりする。
 ずっと走っているとやっぱり手に汗をかくから、途中でシャツの腹とかズボンの膝とかに片手ずつこすりつけながら進む。べたべたしていると欲しいものも手に取れなくなるからな。それにあまり汗をかいているとゴールした時にみっともない。一歩手前で一回死ねばそんなこともないのだろうけれど、あいにくその頃にはたったひとりで走っているなんてことがザラだ。寂しくはない。ちょっと虚しいけど。でも栄光への架け橋がもう少し先に待っているんだと思うと頑張れるよね。眠くなったり集中力が途切れたりする時もあるけどでも頑張らなくちゃと思う。
 とはいえそれはずっと先の話だ。もっとずっと遠くの。ここからだとその片鱗すら見えないし。やめちゃったほうが楽じゃん、とか思ってしまうし。でも進まなくてはならないのだと自分に言い聞かせてみるのはそのほうがかっこいいしモテるし何よりもう今では生活の一部だから。しょうがないのだ。前進あるのみだ。たとえどこかで取りこぼしがあったとしても仲間が次々に倒れていったとしても。
 前は勢いよく飛び出して死んでしまったから少しゆっくりと進もうと思う。焦ることはない。記録よりも記憶だ。すごい人は上に何人もいてその人たちがいまだに現役でパソコンの前とかに向かっているからこっちはもうどうしようかたじろいでしまうよな、ていうか卑怯だよな、経験がものを言う仕事って卑怯だよな。そりゃ何回も何回もゴールしていれば触感というか、手の抜きどころとか集中ポイントなんか分かってラクチンだろう。
 けどそんなんじゃつまんないし、そこまで行ったらもう、後は飽きるしかないんだと思うのは、まだ第一章のゴールにすら辿り着いていないからだ、行くぞ、前進。
 わたしは別に詩の話をしているわけではない。詩のことが書いてあるかのように書いているだけで、こっからそのことを念頭に置いて読み直して、いろんなところが文章作法的解釈を喚起するとしても、それは完全には正しくない。完全に正しいことなんてあってたまるか。
 勢いよく飛び出したら死んでしまったのは書き出しについてではない。
 あっとういう間にひとり減ったのは読み手の数ではない。
 レンガも雲も木々も何のアナロジーでも暗喩でもない。木々なんかその気になって読めば最後の一行を見越してところどころに按配するショート・ストーリーの連なりみたいに読めるけどでもぜんぜん違う。木々は木々だ。
 べたべたしている手だと欲しいものも手に取れない、というのも、濡れ手に粟という諺とひっつけて慾だけで詩を書いていると有名になれないとか、本当に書きたいものが書けなくなるとかそういうことではない。あんまり汗かいてるとみっともないというのも、いかにも努力しました考え抜きました一生懸命書きましたっていう文章が、むしろえげつなくて見苦しいとか、湖を泳ぐ白鳥みたいに足元バタバタでも、人に見せる部分は優雅で感傷的で日本的じゃなくちゃね、というわけでもない。一歩手前で一回死ねばっていうのも、狂言回しか主人公かヒロインが死ねば展開が盛り上がるから使わない手はない、というのでもない。あいにく長編散文詩の書き終わりは本当にたったひとりでどでかいもんと闘っているというのは事実かもしれないけどでも違う。
 ずっと先の話というのは、この文章そのものの書き終わりとかではない。さっきから文末がぜんぶ無い無いだ。でも、そのほうがかっこいいしモテるし何より今ではもう生活の一部だというのも、いかにも詩について書いてあるように見せかけて(ここはちょっと見せかけたけど)そうじゃない。
 前は勢いよく飛び出して死んでしまったからというのも、前作の書き出しに凝り過ぎて尻すぼみになってしまった、今回はもう少しゆっくり行こう、というか今ここで立ち止まってウダウダ言ってるのもその一環だ、とかではなく、本当に勢いよく飛び出したら死んでしまったのだ。いつもなら簡単に飛び越えられるはずだったのに、時折こういうことが起こる。腕がなまっているとしか言いようがない。また『ない』だ。
 ずっと箱に入っていたのにきのこは腐っていなくて食べたらすぐに元気が出た。箱の構造を知りたいところだ。そういえば街っぽい。
 足元の床がどこか非自然的だったのはきっとそうだからだ。ロンドンとか、ニューヨークとか、東京のこぎれいな路地みたいな足元だ。近代の落とし子。現代の旗手。わたしは思いつきでものを言う。むしろ思いついたことしか言えない。思いつかないまま適当に書いたら、書いてはいけないことを書いてしまいそうで怖いのだ。原稿を何回も手直しするのもそれが理由だ。
 けれど書いてはいけないことなんてないのだとしたら、わたしは相当アホなことをしている。青信号の横断歩道に立ち止まるようなものだ。けど赤信号の横断歩道で立ち止まらずに勢いよく飛び出して死んでしまったら困るから、やっぱり、これでいいのか?
 わかんないから先へ進もう。そう簡単にわかることでもないだろう。
 どうやって作るのかはよく知らないのだが、たぶんエジプトかどっかから切り出してきた岩を手のひらサイズの四角形に切り出して、ひとつひとつ埋め込んで路地の石畳は出来るんだろう。サイズとか切り口がまばらだったり斜めだったり、時折石そのものが欠けていたりするのはそれが粋だからだろう。けれどそれに躓いて転ぶわたしらはぜんぜん粋じゃない。野暮なき粋なぞこの世に無くて。洗練された路地を洗練された格好で歩いていたら滑稽だろうな、ぴったり過ぎて。いかにも過ぎて。そういう時代なのだ。素直になれないわたしら。山が遠くに見えた。ぜんたいをざっくり見ると頂上から裾野まで緑一色で、山の端の緑と空の青との境目が補色で輝いて違う色が浮かび上がる。一本いっぽんをじっくり見るとひとつひとつの木々は申し合わせたように少しずつ違う色で、中には一本だけ色の変てこなヤツもいて、微視してから俯瞰するとそいつだけ浮いている。わたし本人が走っているわけではない。だからたとえ何人減ったとしても誰もいなくならない限りは平気でいられる。誰もいなくなっても最初からやり直せば数人からまた始められる。現にそうしている。何度もやり直している。


自由詩 超真理男兄弟[場面1−1] Copyright 国産和風モモンガ 2009-03-27 13:02:15
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