宵の挨拶
北街かな

 三日月がいっそう薄目がちにほろほろ涙を零しておりましたので、私まで悲しくなってしまい、ほろほろと泣いてしまっていたのです。

 私が泣いたからといって、月がゆっくり安寧のなかに眠れるわけでもなく、私が泣いたからって、私にとり憑いたざわめきの悪魔が蒸発するわけでもないのに。わかっているつもりでありましたが、それでもさめざめと両の目より、月から受けた光を落として落としきってしまう以外、すべが見当たらなかったのです。この夜があまりに透明に鋭く尖り、無礼にも私のメンタル・テリトリを微細に分断しようとするので、困りに困り果てたその末の所業であったのです。

 三日月はたまに輪郭を滲ませてぐにゃりぐにゃりとタテヨコに歪み、ヒューヒューホーと小さく歌っては何事もないように澄まし、ひとりでぴかひか光っているのです。そのさまがあんまり悲しくておかしいから私はつい、泣きながらも、くすりと笑ってみたのです。

 すると三日月は、この歌がそんなにも面白いかい、と誤解してしまったようで、ヒューイヒョーイホホーイとよりいっそう大げさに演技をし、おどけながら歌って踊って跳ねて見せるのです。私はどうにも申し訳なく、心が置けなくなって、おどおどして目をそらしていました。

 すると遠くの森の隙間からフクロウとコウモリたちがばたばたと顔をあらわしてきて、
 なんしたの?
 今夜はお祝いでもあるのかね?
 定例の宇宙生誕記念日における祭りの予行かね?
 などとと口々にうわさをはじめます。眠っていた昼の動物たちも不機嫌そうに目をしばたかせながら、ねぐらから片手をにょっきりだしてみせるのです。

 あれよあれよと、沈黙していたはずの深い深い闇の時間が、あわただしく波立ってきたので、私はあわててしまいました。北の時計塔のてっぺんにある鐘楼の釣鐘のつやめきに目をそらしたり、その直後には西にある広葉樹の生え揃ったお山の中腹にあるぽっかりあいた禿げの広場に黒目を泳がしてみたり、誰もきづかない私のからだの足元にある重く、よどんだ、くろい悪魔の染み込んだ人間型の陰影に目を落としたり、やっぱり何もない天井をばかみたいに見上げてみたり、あっちら、こっちらと、右往左往にぎこちなく視点を切り替えておりました。が、やはり大仰に歌う三日月のことが気に触ってどうしようもありません。三日月の、
 ヒュールルルンホルルルンウララ・アーン・ンーン
 とかいう見ていられぬほどの大胆な歌いぶりとその身のまぶしすぎる光りだしっぷりに、大層いたたまれなくなり、こころの裂け目から密かな出血も止まらなくなってきましたので、ここはもう恥を忍んでひとおもいに、三日月に向かって声をあげてみようか、と思い立ったのです。
 私はひらきぱなしの窓から半身をぐいんと乗り出して、あごを上下に振りながら懸命に月の声を発声しました。
 月の声は喉をふるわせるだけでは足りません。動物にはわからない暗黒の物質をも大きく震わせなくば、月にも届く声たりえないのです。発声は喉の奥より奥の、心臓の奥の、そのまた奥のほうまで使って、全身を共振させたあげく、足元の影に住む悪魔をも動員しなくてはいけないのです。五臓と六腑と両手両足、体躯に頭部、肩までの髪の毛、切り忘れたままの爪の先、流しっぱなしの血液、だらしなく暗いほうへ伸びた陰影、そのすべて、私の私たりうる構成要素、のみならずその周辺の要素、現象をも最大に使ってやらなくては達成は不可能でしょう。ですが、それらすべてを私の精神の意図のとおりに反応させ知覚させ動作せしめるには非常な困難が伴います。私は私ですが、私はまちがいなく「ここ」から「ここ」までであり、私は「この範囲」を、まちがいなく随意に自在に出来るのだ、などとという証明は出来た試しもなく、むろん自信もなければ、達成の経験もなく、保証なぞ到底できかねるのです。私が足を下げようと唾を飲み込めば右手が挙がり、背筋を伸ばそうとお尻をふれば膝がわらうのです。さむいしさみしいと耳を塞げば、肌にはますます鳥肌が泡立って辺りは冷えてむなしく冴え渡るばかり…そんな有様であるのです。
 それでも私は月に話しかけると決めましたので、ひとおもいに、   アー、ラーラ、フゥ、ヨイノ、アイサツ、
 と叫ぶまねをしてみせました。

 三日月はびくりと驚きおののきました。発光部をより鮮明に見開いたまま動くのをやめ、歌もすっかりやめてしまいました。
 はるか眼下の蟻んこみたいな私を見つめ、だまって、ようすをうかがっていました。私はいっしゅん、なぜ月に話しかけたのかを忘れてしまって、口をぽかんと開けたままぼんやりしていました。
 三日月は青白く燃えあがったかと思うと、月の声を素早い夜風に乗せて私に聞いてきました。「さきほど くすりと わらったのは おまえか」よく聞こえませんでしたが、おおかたそんなふうなことを言っていたのでしょう。私は声をだす余裕もなかったから、ぶんぶんと首をタテにふってみせました。すると私の周辺がにわかに色づいて七色に染まりだし、いくつかの事象がその位置をそっと変えてゆくのを感じました。
 三日月はご機嫌そうに、てかてかと輪郭をちらつかせました、すると三日月はすこし大きくなったのです。どういうことだろうかと考える必要もなく、ああ、三日月がこっちに近づいてきたなと理解しました。
 すると三日月はなんと、また歌いだしました。
 アアーラーソォーノォーアアアァー・クゥ・マァーアア、ダレー。
 鼓膜がはじけ飛んで脳みそにひっかかるかとおもいました。三日月が私のごく近くで、おおごえを張りあげて歌ですらない轟音を吐き出したから当然です。轟音は窓とベッドとお布団と、ふかふかのくまさんを彼方までふっ飛ばしました。私だけが三日月のひかりの真下に取り残されたので、より鳥肌がひどくなりました。
 推測でしかありませんが、きっと三日月は「あら その悪魔 ダレ」と私に質問をしたかったのだろう、と考えます。確証など当然ありません。三日月と私とは今夜初めて会話をしているのですから、意思の正しい疎通なんてほとんど無理でしょう。ですが、私はそう問われたものと勝手に決め付けたので、さっさと返答してしまうことにしました。こんな近くで、このような恐ろしい音を出され続けたら、私もいい加減ばらばらに砕けてなくなってしまいます。

 私も歌ってやりかえします。

 この悪魔は知らないあくま
 あくまでも見知らぬあくま
 私の月影に住みついて
 ほんとの影をむしゃむしゃ食らって息づき
 宵のときには決まってうるさくじゃまをしてくる
 何のじゃま?
 私の生存本能の妨害行為
 つまりは存在をじゃましてくるのです
 いつからかそばにいて私につらくあたってくる
 もう眠りたいよ
 心から笑いたいよ
 綺麗な声で歌いたいよ
 ひとの居るせかいへかえりたいよ
 だけどあくまは正反対のことを勧めてくる
 ぜんぶやめたいよ
 どこにも居たくないよ
 汚い言葉で叫びたいよ
 なにもかも、なくなってしまえばいい
 そんなこと、思ってないの
 思ってないんだよ、私はみんなに優しくしたくて
 みんなで幸せになれたらそれでハッピーで
 悲しいことなんてなにもない
 憎しみなんて覚えもしないで
 ひとを愛することで、愛してもらえたら
 それで良かったのに

 それだけで良かったのに

 気づいたらみんなふっ飛ばされてて
 ここには何も残ってなかった

 私の寝床だけがあって
 足元にはあくまがいて

 三日月よ、あなたの耳障りな歌だけが
 歌だけが

 ルララララー

 もうやめて

 やめてほしいのです
 お願いします

 ラララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララソソファファファミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミ三日月は発光体をあんぐりと開けて私の歌を聴いていました。やがて、不愉快そうに先端をシャキン、シャキンと尖らせたかと思うと、
 小刻みに、空を切りはじめました。
 しゃきん、ちょっきん、夜空に入った切り込み線から星座が分かれてゆき、星と星が残念そうに所定の位置から離れてゆきます。チョッキン、ちょきん、三日月の切っ先はより鋭利に、より残酷さを増して空という空をめった斬りにしてゆきます。
 私のラララララがうっとうしくてたまらなくて、居てもたっても居られぬ様子で、もうやけくそになって、ばうんばうんと全身を振りかざしています。
 ジョキン、ばっつん、どしゃん。
 天の川が中流から突然に分断されてしまったので、夜の堤防は破壊されてしまいました。途切れた川の端っこから大量の星屑があふれでて、空から水平線から海原から海岸線までを、ほろほろと埋め尽くしてゆきます。

 おやまあ夜の調和はいったいどこへいってしまったのでしょうか。星屑の洪水は、バラバラにされた夜空を余計ごちゃまぜにして押し流すものですから、もはや残っている星座は見当たりません。天文観測中だったヒゲだらけの学者たちは、最新鋭の望遠鏡のそばでなんども首をひねっています。アルファ・ケンタウリを目指して決死の航行中だったJAXAの船団は星屑の濁流に巻き込まれて、統制を失ってしまいました。船橋や舳先から幾人かの乗務員が投げ出された模様ですが、宇宙服をシッカリ着込んでいますからたぶん大丈夫でしょう。
 そうこうしているうちに三日月は夜空をすっかり切り分けきってしまって、もう切断する余地もないらしく、動きを止めました。ついに諦めたかと思われましたが、ところが、まだまだ足りないようなのです。ジャキンジャキンと体をふって、まっさかさまにわれわれのいる地上へと堕ちてくるではありませんか。夜空を刻むのみに飽き足らず、私どもの大地までもをスッパスッパとケーキみたいに切り分けてしまおうというのでしょうか。どちらにせよあの勢いのまま、あの鋭い切っ先を地上へと叩きつければ地球は大変なことになってしまうでしょう。
 私はことの重大さに気づくころにはすっかり反抗的な歌などやめてしまっておりましたが、三日月はぜんぜん気づかないのです。逆上とはまさにこのことを言うのでしょうか。さて、私はどうしたら良いのでしょう。悩むひまなど御座いません、月の落下を阻止しましょう。出来ますか?

 足首に絡むまっくろ悪魔は、
 出来ない、
 出来やしない、
 あきらめろ、
 私にそんなチカラなんて無い、
 脆弱だ、惰弱だ、矮小だ、
 白痴だ、無能だ、短足だ、愚鈍だ、ぶきっちょだ、おっちょこちょいだ、無理だ、無理に決まっている私なんて、
 と大騒ぎして私を引きとめようとします。しかし私は、無理と決まっていようが決まってなかろうが月がどんどんと地上へ落ちている事実は変わらない、と思いましたので、なんとか無視しました。そして月の落下予測点へと猛烈の勢いで走ったのです。
 走っても走っても目指す点は近くなりません、よほど遠くなのでしょう。それでもとにかく走ってみました。月のまぶしさは視界をまっしろく覆い何も見えなくなってゆきます。もう、もうだめか。

 目を閉じました。
 まっくらになりました。
 そっと目を開けますと、まだ地面に足がついているのがわかります。
 月は、あの巨大な光はどこへ行った。




 三日月の鋭いナイフは、
 私のかかと後ろにべっとりとのびた黒いあくまの、どまんなかを突き刺して、
 静かに、地上に刺さっていました。
 さみしく夜風が吹いています
 ついにくしゃみがでました
 ばらばらの夜空が東のあたりでほんのり桃色に色づいています

 あくまはフリュギュニュンジュミョン…ルルルゥと汚い声で歌って事切れました
 三日月はゆっくりと地平に沈み込んでゆきます
 あかるくなるころには砂になって風にさらわれてゆきました



 朝です





自由詩 宵の挨拶 Copyright 北街かな 2009-03-25 21:22:59
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