鳥の論理と虫の論理など(1)
Giton

  ☆はじめに
 睡蓮さんの「立つべき位置について」と、そのコメントでの議論に触発されての小文です。
 携帯から直接サイトに書き込んだために、正確な引用でないことをお断りしておきます。論旨を読み誤らないよう注意していきますが、誤りはご指摘いただければ幸いです。
    ☆
1 睡蓮さんは、イスラエルのガザ攻撃をきっかけとするパレスチナ紛争を現地取材している・ご友人でもある外国人ジャーナリスト(日本人でもパレスチナ人・イスラエル人でもないとの意味でしょうか?)の報道姿勢について述べておられます。
 パレスチナ人の世論は、停戦を境に、それまでのハマス支持から、一転して「ハマスはわれわれを盾にした」との批判に急変してしまったのですが、
 記者は、変化した世論に沿って自分の主張も変えてしまい、これまでと一転してハマス批判の記事を書いている。これは、ジャーナリストとして(?)あるべき態度ではない、という睡蓮さんのご主張だと思います。
 たしかに、睡蓮さんの言われるように、
 加害者の圧倒的な武力を前にして、被害者同士が争い合っている時に、局外にいて事情を知る者がなすべきことは、被害者どうしの争いを煽ることではなく、「あの加害者こそが罰せられなければならない」と説くことである――という結論には、私も異議がありません。
     ☆
2 しかし、ここで私が強く感じるのは、紛争地を現地取材している記者にとって、そうした大所高所の客観的な立場に立つことは、果たして可能なことなのか、きわめて難しいのではないか、ということです。
 そして、そのことは、紛争地から遠く離れた私たちの立ちうる位置にも影響を及ぼすのではないか?すなわち、私たちが、客観的な立場で「説く」ことは、はたして可能なのか?という問題を提起するのです。
 睡蓮さんの主張しておられる立場は、一歩下がって全体を視野に収めた・いわば「鳥の論理」です。しかし、紛争の渦中にいる民間人の論理は、いわば「虫の論理」にならざるをえないのではないか。(だからこそ、見通しのきく立場にいるものが、「虫の論理」に追随してはならない――と言われるかもしれませんが、しばらく進めさせてください。)「虫の論理」は、「側がわの論理」と似ていますが、同じではありません。睡蓮さんの指摘されるパレスチナ世論のように、一方の側から他方の側へ容易に、無節操に寝返ってしまうことがあるからです。
 このような変転極まりない論理は、日本では支持されないかもしれない。しかし、それは、世界の広い部分において現実です。
    ☆
3 そして、現地取材するジャーナリストは、取材源との個人的な関係によって取材するのであり、取材源とジャーナリストの間をつなぐのは、正義感の共鳴よりも、友誼ないし便益でしょう。取材源の意見を伝えてくれないとなれば、容易に壊れる関係なのではないのでしょうか。


散文(批評随筆小説等) 鳥の論理と虫の論理など(1) Copyright Giton 2009-03-22 22:55:09
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