川上未映子さんが受賞した今年の中原中也賞の候補だった
小川三郎さんの詩集、『流砂による終身刑』の詩を読むと、自分の理解している世界の見え方に、りんごの切り口のような割れ目が見つかります。
短い詩の中で、色鮮やかな言葉がたくさんある分、その飾られている言葉の中に語り手がいるという状態がとても不思議になるのです
例えば『羽影音』という詩は、脳のうごき、特に見えないところで確かに動いている様子をうまく捉えているような気がします。
羽影音
午後
部屋の暗がりに
ビーズが降っている
いつの 午後だか
晴れて儚い季節の午後に
子供の色で
降り積もる
暗がりの方へ流れていく。
それを追って首を差し入れ
見えた眺めで
記憶をなくした。
ひそかなねじれに身を任せた。
一回
さらに半回
ねじれ
降るビーズに素顔をさらす。
青に赤に黄色に紫。
子供の色が降りやまない。
天井手前に浮かんだ顔は
白い光の点の集まり。
しかしピントが合わせられず
音に記憶が満たされ
埋もれ
やがて光は呼吸を止めて
子供の匂いに世界が染まると
大方見つめる必要もなく
死別した夢
走馬灯に
映るものは犬 大鷲、
家鴨 こおろぎ ギンヤンマ。
影絵を作った手を裏返せば
窓の外に 犬の鳴き声。
やんまが横切り家鴨が騒いで
追い掛けたのは私の裏声
季節がひとつずれている。
寝過ごしたのか眠り忘れか
体はもう
鳴り止んだのか。
一番最後の連で「犬」や「家鴨」や「こおろぎ」や「ギンヤンマ」といった動物達の名前が出された後、それらの動物が動き回ります。
私はこれらのさまざまな言葉が、語り手の「大方見つめる必要もなく/死別した夢」なのだと想いましたが、人はいかに多くのものに囲まれてすごしているのでしょうか。
それ以上に一連目の「午後/部屋の暗がりに/ビーズが降っている/いつの 午後だか/晴れて儚い季節の午後に/子供の色で/降り積もる/暗がりの方へ流れていく。」
と描写される、恐らく「記憶」の作られ方の砂時計に砂が積もるような静けさ。
「子供の色」とされている青や赤や黄や紫の光は、今の自分の頭の中でちらついているような気にさせられます。
ほかにも、『風化石』という詩のフレーズ
獣にはみな角がある。
そのへん神によく似ている。
獣は柵の内側にいる。
そのへん私に
酷似している。
はどことなく宗教の一番根っこの部分をイメージさせてくれますし、
『銀水録』の中で「美しい模様、形、色、/じわり染み出る感情、平和、濃淡、真偽、/金属質なら何でも映せる。」という会話を表す以下のようなフレーズを見ると私は人の心まで見えるような気がしてしまいます。
液体金属で出来ていた私たちの会話
流し込み ろ過しあい
伝達しあった私たちの言語。
それは常温から生まれ熱を遡り
なんとも知れぬ空へと気化した。
夜を抜けるための唯一の道具。
私たちは常に言葉を傷め続け
その輪郭を更新した。
美しい模様、形、色、
じわり染み出る感情、平和、濃淡、真偽、
金属質なら何でも映せる。
私たちは交互に分割され連続し
螺旋を思いついたのはあなただ。
肉体は私たちの意図を理解した。
そして凝結
述語が剥がれ落ち肌があらわになったあなたの匂いに
胸は形を失念した。
この詩集の中の詩のタイトルのほとんどが、
多分詩人本人が作った言葉、とくに画数の多い漢字で埋め尽くされていることも
詩がつくる世界の不安定さを形作っているような気がします。
そして、この色や物体の名前ではっきりと区分けされている世界の中に、ときどき私自身も住んでいると思えるのが不思議な詩集です。