博士の愛した異常な数式
影山影司
びおうびおうと風が吹いた。不純物が混ざると雑音も増すのだろう。雪混じりの風は音を強く感じる。雪国というと詩的情緒な感覚だが、実際は酷く暴力的だ。
何せ、窓の外は三歩と進めば迷ってしまうほど視界が悪い。道に迷おうものならば裏路地に迷い込んだ旅人と追剥の如く、あっという間に体温を奪われ、命を失うことも珍しくない。深海や宇宙と同じように人間が居ていい場所ではないのだ。
幸い、室内は暖炉の気配と暖かさに満たされている。まるで旧世代のログハウスの見掛けをしているが、この家は高度技術によって建造されている。博士生命工学によって作り出された人造木材はハニカム構造を形成し、断熱や強度に跳んでいる。叩きつける雪にも、降り積もる雪にも折れることなく耐えるのだ。木材の下、壁面の中には血流を模した温熱粘液が駆け巡り、室内の温度を調節してくれる。本当のところ、暖炉は要らないのだが博士が雰囲気のためにあしらえたのだと言う。
博士は見かけこそ凡百の平均的な身なりをしているが内面は非常に繊細かつ独創性に溢れる人柄だ。食欲性欲睡眠欲、全て押しなべて団栗の背並べ程度のものしか持っていない。だが凡人のそれらを足して二倍にしても追いつけない程、研究欲だけは旺盛だ。(専門分野が無い万能研究者と評される程に)
発明、発見、発祥。彼は『発』の字が良く似合う。もっとも、秘密を紐解いてしまったら後のことにまったく興味を持たないので、名誉やら権利だのはもっぱら他人の手に渡ってしまって、博士の名前は一般に知られていない。彼の所属する『研究室』というヤツもそこらへんを心得ていて、博士に幾らかの金を渡す代わりに彼の研究内容を掠め取っている。
私は秘書という名目で雇われている。だが実質、博士の同居人のような立場であった。食事の用意をして、自らのもののついでに洗濯と掃除をして、あとは博士の研究室の長椅子に寝そべって本を読んでいた。
博士は「部外者が静かに傍で座っていないと、落ち着かん」と言っていたが何と難儀な性癖だろうか。
私は元々口の達者な性質では無いので、この役に向いているのだろう。気まぐれに薪を暖炉に放り投げ、時折紅茶を二人分のポットに淹れ、大き目の湯飲みに注いで啜る。博士がせびって来たら小さめの紅茶碗に残りを注いでポットを空にするし、何も言わなければ温くなった湯飲みに注ぎ足して楽しんだ。
博士は時折「どう思う?」と私に話しかける。
他人に説明することで思考を整理して、別角度からの観点を求めようとしているのだろう。もっとも、彼は私と同じ言語を話しているのに語彙の貯蔵庫はまったく別の形をしているらしい。私は彼の話を半分も理解しないまま、「釈迦に説法、僭越ながら語らせてもらいます」と前置きをした上で頓珍漢な答えをせねばならなかった。
長椅子の隣に小人の机。机の上には紅茶と、読みかけの本が一冊二冊。枕に頭を乗せたり、顎を乗せたりしながら本をつまみ食いする私。足の方には暖炉があり、長椅子の傍ら手の届く範囲に薪が積んである。
頭をちょっと持ち上げれば、四歩ほど歩いた向こうに博士の大きな机が見える。
机の上には神話創造よろしく混沌がある。実験結果や良く分らない情報を詰め込んだ真っ白の印刷紙。ハノイの塔かバベルの塔か、積み上げられた印刷紙は時間が来れば崩れ去る運命にあるらしい。運がよければ机の上に。悪ければ床にだらしない感じで。
もっぱら、ここが私の住処だ。
どう思う、と博士がガサガサと机の上の資料を引っ掻き回しながら話しかけてきた。探し物をしながら会話をする、私はこれが博士の一番の天才所だと思っている。
「最近の学説ではね、世界というのは何層もの次元が折り重なった塔のような状態となっている。層の一枚一枚は中に大量の情報を詰め込んでいて、次元一つにそれぞれ独立した世界があるのだ。
己の存在するこの世界もまた、複数ある次元の一つに過ぎないのだ。」
博士が「ドーン!」と叫んで博士は机の上に腕をたたきつけ、箒で掃くみたいに積みあがった紙の山を床に押し崩した。叩きつけられ折潰される紙、床の表面を滑ってあらぬ方向へ行く紙、抵抗で中空に舞いそのまま撫でるように落ちる紙。
「何故、積んだだけの塔である『世界』はこのように崩壊しないのか? 外部から負荷をかけられないためか? いいや違う、頑丈な囲いに守られているからだ。綴じて纏められた書類が散らばらないように。私の研究はね、その世界の『外殻』とは何かを探すことなんだよ。新たな発電方法だとか、治療薬の開発だの、生命工学でこんな家を作ったりだのは、その余技に過ぎないんだ。あともう一年もすれば私は第一歩を歩み始めるだろう。つまり『我々以外の次元』への干渉および観測だ。隔絶された次元の中にある情報は、私の想像もつかない有益なものを齎すだろう、そしてそれらを繋ぎ合わせると、必ず私は外郭の正体へ辿り着くのだ。そう、まるで一枚一枚では意味を持たない資料が、綴じ纏められることで一つの『答え』を出すのと同じだ。どう思う、忍君」
博士は目当てのものを見つけたらしく、話を収束させた。私は彼の言うことをこれっぽっちも理解しないまま「釈迦に説法、僭越ながら語らせてもらいます」と断って、傍らの机から読みかけの本を一冊とって、博士の机に投げた。ちょうど博士が押し広げた部分に行儀良く表を上面に着地した。
「こんな感じですね」
自分が読んでいた本を、サンドイッチの中身を盗み見るみたいにして一枚一枚捲ってみる。「一頁毎に莫大な情報があって、全てを繋げば一つの答えが出る」
博士は一拍、間を於いて「言いえて妙だな」と答えて本を私に投げて返した。
してやったり。
博士が投げ返した本を見ると、以前読みかけて止めた本だった。私には合わない世界観だったが、何故か頭に残る内容だったから久々に引っ張り出してみたのだ。
長くしまっていたから埃がしみ込んでいて、ページを開くと埃がふわりと飛んだ。
適当な一文を読むと忘れていた情景が思い浮かぶ。
ここよりずっと暗い雪国の話。大勢の人間が出てくるのに、誰にも名前がついていなくて、未来の話なのに、なんだか昔を思い出す世界観。
題名はなんだったか思い出せない。久しぶりに味わうとまた違った感覚に浸れる。
きっと今なら面白く読めるだろう。
全部読み通したら題名を見よう。
傍らの机に本の表を下向きに置いて、今読んでいる本に戻る。