誰かが喋っている
竜門勇気


誰かが誰かに語りかけている。これは、詩だ。詩的表現という言葉が僕はあまり好きではないことのお話。はじまりはじまり。

大体において、詩的というからには固体、単体として「詩」って奴があって欲しい。けど、どこやかしこで見られる詩には既に詩的である単語が羅列という暴力で打ち込まれて、あーまるでキャベツとひき肉を並べて「これは、ロールキャベツ的キャベツとロールキャベツ的なひき肉によって構成されている。ゆえに、ロールキャベツです。これ。」だなー。
あー僕はこれをロールキャベツであろう、見るものの想像力やら深読みやらで調理されてロールキャベツになるのだな、とは思えないのになー。と感じるわけです。たとえ話が下手糞なのです。

たとえば、どっかの不憫な思考回路の持ち主が”ああ、それは詩的だね”といった時僕らが思い浮かべる「詩的」の代名詞ってなんでしょう。み○をさん?いやいいとおもうよ、けなしてるわけじゃないよ、訴えられたくないだけだから。
あるいは○○?あるいは××?これこそ人それぞれに思い浮かべてみることでしょう。
しかし、街行く人のほとんどは、回りくどくて分不相応なスケールのことを扱ったガキ(もしくはガキ並みの脳みそのバカ。これは自戒だ。)の理想論、平均寿命の瀬戸際で人生訓を語りたくなってきた老人の世迷言が「詩的」といわれているわけじゃないですか。

だいたい現代詩っていう古い概念が勘違いの元なんじゃないですか?もうやめようよ。ほらあるじゃん、絵画とか音楽の類で新古典主義とか。ばかみてーにややこしーのが。新しく古典を見直して作り直したら、もう古典じゃなくないですか、名前がややこしいのよ。名前が。
その辺全部まとめて懐古主義を名乗ってください。この辺がいつまでたっても「詩的」とか「ポエム」とか「poet」とか糞の役にも立たない類義語を作ってるんじゃないですかね。いつの現代なんだよ、歴史が誰かに作られるの待って現状維持なんてめんどくせくないですか。自分以外に分からないジャンルってどうなんですか。
あと、やたらと歌詞と詩を分けたがる奴も同罪だぜ。ってなもんで。メロディーに乗るのが前提だからどーとかじゃあ韻文詩は語の文揚とか頭韻とか脚韻を揃えていくのが前提だしカトゥレンは四行で韻を踏むのが前提だし(詳しいことは分かりません。高卒なので)かってに自分の中で詩のルール作ってるだけなんじゃないのかと思ってしまうんです。
詩に心酔するのは気持ちいいことです。
けど詩を書く自分を好きになりすぎると、誰も読んでくれなくなっちゃうですよ。読まれるために書くでしょ?少なくとも。ちょっと前になんか詩的な言葉を集めててきとーに組合せば詩ができちゃう!みんなもやってみて!どんどんやってみて!みたいな散文の人の散文を見てグサッときてる人いるでしょ?
まあ僕もだけど。

もうやめましょうよ。見せ掛けの詩的な単語と思わせぶりな文体に翻弄されるのは。
僕らの頭の中に無限数のチンパンジーがいてタイプライターを叩いてるなんてありえないんだから。
普通に誰しものなかに二つとない思いがあるのに、現代なんてもうやめよう。”今”でいいじゃないですか。
はるか未来に誰かがそこに詩情を見出せばいいじゃないですか。「詩」以上でも「詩」以下でもないただの詩を書きなさい。

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俺は、骨董品のワープロが背中のプリンターからこの手紙を吐き出すのを見るとつるつるした感熱紙の手触りを楽しみながらタイムリプレイサーに投入した。
アナクロな変換サーキットを2009/03/05に合わせる。時間帯は運任せだ。うまくいけばいい、下手をしても今が書き換わったことを気づく術はないが。
もし一日でもずれてしまえばこの世界ではありとあらゆる文字を媒介とした娯楽は消え去ってしまう。
幾年前にこのずれの分岐を事象誤差解消プログラムのリハックから推測できた日には歓喜したものだが、今メッセージを送り終えた今では全てが夢のように感じる。
かつてwww.上で繰り広げられた文字と文字の衝突こそが未来永劫我らの文化の最も熱量を持った時期であったとメッセージを受け取る彼らは信じるだろうか。
今もって夢を見ることがある。俺は26歳、50年前まだ僕らに・・・

現代詩があったころ。





俺はビンの底に残ったウィスキーを飲み干して笑った。これなら誰に批判されてもフィクションだと笑い飛ばしてやれる・・・。


散文(批評随筆小説等) 誰かが喋っている Copyright 竜門勇気 2009-03-06 00:06:05
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