才能空白賛歌
北村 守通
なんでだろう?
釣りなんてぇものに手を出して。
だから何があるんだろう?
まだ結果に恵まれていりゃぁいい。されども、その9割方は苦しみと哀しみしかない。報われたものも確かにあるが未だ報われないジャンルの釣りはゴマンとあって、それでもボクは自分なりに綿密な計画を建て、考案し、現場で出会った見ず知らずに笑われ、魚に無視される。
釣りの才能はボクにはなかったようだが、運も大抵ボクを突き放しているが、たまに悪態ついて、たまに自分の生を呪ったりもするが、釣り止めようかと聞こえないように呟いてしまったりもするが、やっぱりボクの手のひらは釣り竿のグリップの感触を求め続けている。
才能がないから数を打つ。コンセプトがズレているから悪化する。だからこそボクの釣りがある。人の釣りを盗み見しては自分の仕掛けを変えたり、あるときは意地を通す覚悟を固める。そして、あるいはそれでも満足いく結果を得られることは少ない。
努力とは免罪符ではない。努力も使いこなせなければ意味がない。そして努力を使いこなせた人というのがどれだけいるのか、と考えてみればまぁそうそういやしないんじゃないかと思う。
才能が欠落しているからこそ次を考える。試行錯誤の方向性がどうやら違っているらしいから軌道修正を試みる。それはそれは厄介で重い。動かしたつもりが、動いたのかどうかもわからない。しかし、試してみなければわからない。試してみなければ未知の魚とコンタクトする接点はない。
その作業は釣りにおける数少ない楽しみである。結果に打ちのめされても、もしかするとここに楽しみがあるのかも知れない。才能がない、努力の才がないことでボクはもしかしたらたった一つのボクだけの秘密の空間を得ることができているのかもしれない。
だからボクは多分、詩も、釣りも止められないだろうと思う。確証はないけれど。