私は詩人ではない。新しい芸術
奥津 強

自分を詩人だとは思えない。表現の限界とかいう事ではない。自分で名乗れば、詩人。自分で歌えば音楽家。元々、周囲から評価されるという事は無縁のルールが出来上がっている。
むしろ芸術をする人間はしない人を評価していく事ではないか。
特権意識を持った一部のアーティストは、間違っていると思うが。

自分を駄文書きと思った事はある。言葉を作っていく作業。書いていく作業。その表現方法はある意味で従来に縛られていないという気はする。

元々、何が才能で何が非才能なのかも分からない。女子高生の書くポエムを否定する人も、自己満足な人も、”評価を受けている人も”、才能のあるないは俺にはわからないのだ。
生活に意義を見出している人、自分の人生を構築する手段としての芸術だとしたら、それらにジャンルわけは出来ないし、そもそも、今俺が使用しているのは日本語。そして日本語の何かによって表現するというのは、どうなのだろうか。

才能は他人の評価で決まるのだろうか。
多分、決まったルールに沿った芸術だから優劣が決まるのだ。比較出来ない新しいアートをどんどん生み出していく事だ。

そういう意味で、俺は六崎君は新しい人だと思う。お世辞ではなく、彼の作品にポエジーはないと正直思った。詩心というものがあの作品には通常の表現ではなく、その代わり言葉遊びから、一種類のミューズへの判定が下されている作品だと思った。
若い人はもっと従来から新しいものへと構築していかなくてはならない。
それは民衆の芸術といってもおかしくはない。
更なる飛躍へ。更なる。

とにかく詩、小説・・およそ表現が固定されてしまっているものから、脱却というのは非常に大切だ。その上で上手さんが前に語った「人に感動させるもの。それが詩」という言葉を思い出した。
何かにしても、人に与えるものが芸術。そうだろう。
言葉に固定せず、とにかく新しく芸術を作っていこうと思う。
それはマニアックでも良いが、確実に何人かの人に、なんらかのイメージをもたらす事。

追記

具体的な案を持ってくる前に、昔からなぜこのような作品が生まれたのかを考えなくてはならないだろう。
源流があって、海があるのである。誰かが詩と認めたからこそ、アートはあるのだ。

アートと通常の交流だって良いと思う・・しかし元は、誰かに感動を与える事だ。
感動とは元々人によって与えられるものか? 確かにそれもある。仮想現実だが、生きているそのより深い味わいを感動というのなら、生きる事が芸術だと思わざるを得ない。

その上でその感動を何かによって描写するのなら、俺はまずジャンルがどうこうというよりも、何かの媒体、何かの表現方法、という流れから作り上げていくべきだと思うのだが。

それに失敗し、媒体を壊して、ファミコンでweb芸術作品を作ろうと思った。ファミリーベーシックを買って、それをDVDにし、PCに取り込んで配信。winユーザーは、ソフトを使って、ただ見るだけではなく、何かの機能をつけたまま、ファミコンのフォント、あのPM音源の音で作品を見る。

それ自体から、又色彩の感覚は通常ではないものが出来るかもしれない。芸術は、今考えたのだが、更なる空想力によって、色彩の変わったイメージを人に与えるものなのかもしれない。

まさしく創造だ。


散文(批評随筆小説等) 私は詩人ではない。新しい芸術 Copyright 奥津 強 2009-02-20 20:07:22
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