おといれ
小川 葉

 
先生おトイレにいってきます
そう言って
だれもいない廊下を歩いていた

ある教室の前で
あれは冬だったのか
夏だったのか
さだかではないけれども
とにかく寒く
暑かったかもしれない廊下で
わたしはぴたりと
立ち止まり

ある教室からもれてくる
ある女の子の
いい声の
朗読を聞いていた

猫はクルマに轢かれました
一人暮らしの男は
猫がいちまいの紙みたいになるまで
ほうっておきました
男は一人暮らしではありませんでした
その紙みたいな猫と
二人だけで暮らしていたのです

わたしはもっと
聞いていたかったけれど
おしっこががまんできないので
誰もいないおトイレで
おしっこをした
誰もいないおトイレは
誰もいないおトイレのにおいがした
ひとりで手を洗ってると
学校には誰ひとり
いなくなってしまったような
不安がふとわいてきた
おトイレのにおいがまるで
そこに人がいたことを証明するためだけに
あるような気がしていた

ある教室からもれてくる
ある女の子の
いい声の
朗読はもう聞こえなかった
かわりにその教室から先生の
さきほどの朗読の内容にかんする質問が
聞こえていた

猫がクルマに轢かれたのはなぜか

男が一人暮らしなのはなぜか

男はなぜ猫がいちまいの紙みたいになるまで
ほうっておいたのか

紙みたいな猫と
二人だけで暮らしていたということは
どういうことなのか

わたしはわたしの教室にもどった
先生が
ずいぶん遅かったじゃないか
とわたしに言うけれど
わたしがもどった教室は
教室などではなかった

それは冬だったのか
夏だったのか
さだかではないけれども
とにかく寒く
暑かったかもしれない
わたしの帰るべき場所が
わたしのあたらしい居場所になっていた

先生だと思っていたひとは
わたしの上司だった
教室に似たその場所で
わたしは働かなければならなかった

女の子のいい声の
朗読が時々聞こえてくることもあったけど
それはもう
教室からではなかった

だれもが紙みたいな猫と
二人だけで暮らした男について
考えようとはしなかった

棒読みの
あの女の子の朗読みたいに
わたしは読まれることしかできなくて
生きていることが
とても懐かしかった
 


自由詩 おといれ Copyright 小川 葉 2009-02-19 02:04:12
notebook Home