いつかどこにも行けなかった旅人のはなし
ホロウ・シカエルボク










古く哀しい裏通りを急ぎ足で歩き過ぎたら
今にもお前の呼ぶ声が聞こえてくるような気がして
すり切れた俺は気が気ではなかった、あの、あの曲がり角から
軸をなくした幽霊のような昔が
俺のくるぶしに喰いつこうと
躍り出てくるみたいな気がして

冷たい板を敷き詰めた
夜行列車乗り継いで乗り継いでも
降り立った街に見慣れた景色がある、いつか振り切った
幾人もの瞳がずっと俺を待ちかねている

発車のベルを鳴らすのを少し待ってくれないか、これ以上
どこに向かっていけばいいのか考えられないんだ
発車のベルを鳴らすのを少し待ってくれ
俺の脳髄が麻痺していびきを立て始めるまで

レールを弾く車輪の轟音を越えて、あの日の夜がそこまで来ている
狂った時間、覆われた未来…くちづけをせがむ白骨化した愛のかたち
トンネルをくぐらないで、暗闇からあいつらが肩を掴みに来る
トンネルをくぐらないでくれ、俺はその瞳をもう覗きこみたくはない

可愛い小さな娘を連れた年老いた行商人が
さまざまな小物を持って俺の座席を訪ねて来る、記憶を振り払うような
そんなものはないかと俺が問うたら
そいつはひと包みの粉をくれた
「水と一緒に 腹ペコの時は避けて」
そう言って値段を言った
思わず聞き返してしまうぐらい安い代物だった
俺は金を払ってさっそく試した

レールのうねりは波のような流動体に変わり、窓の外を流れ去る灯りが
ホイップ・クリームのような長い長い軌跡を描いた
列車はひと揺れごとに様々な形に変わり、客席のわずかな連中の顔が
様々な動物や化物に変わった
俺は不思議なほどしんとしていて
それらの光景をぼんやりと眺めていた
少し息が苦しい気がしたけど
完全に記憶は振り払われていた
行商人が連れていた可愛い娘がやってきて
母親のように俺の顔を両手で包んだ
俺はその娘をぼんやりと眺めていた
あああ
街の灯りと車内の灯りが重なり合い…やがて鯉のように跳ねた、俺は一瞬自分の座標が判らなくなり、娘にここはどこだと聞いた
ここはどこだ、どうなってるんだ
娘は何も言わず微笑んで俺の瞳を覗きこんでいた

そのあと少し眠ったような気がした、正気に戻ると娘の姿は無かった
終着駅に辿り着き、ホームに降りると
客車の出口で二人が待っていた
「記憶は誰かを追ったりなんかしない 追われるものがそれを記憶だと取り違えるのだ」
それから、もうひと包みあげようか
と彼は言った、俺は首を横に振った
もしかしたら我知らず笑いを浮かべていたかもしれない
老人は頷くと娘の手を引いて去っていった
娘は途中で振り返りさようならと手を振った

駅の食堂でサンドウィッチとコーヒーを飲み
不思議なほど楽になった心の状態に戸惑った
記憶は誰かを追ったりなんかしない、だけど俺は
ほうほうのていでそいつから逃げようとしていたのだ
新しい列車がついて食堂は賑わっていた
俺はその中の誰とも知り合いではなかったけれど


もう少なくとも暗がりの瞳に
これ以上怯えることはないのだ









自由詩 いつかどこにも行けなかった旅人のはなし Copyright ホロウ・シカエルボク 2009-02-12 22:18:30
notebook Home