カンナ
結城 森士


1.

 沈んでいく午後の窓辺から、ひとつ夕暮れが生まれる。ぽつ、ぽつ、家の明かりが灯っていく。街は林檎を落としたように熟れていて、傾いていく日差しの中にあってその景色はとても懐かしく感じられた。沙織は、燃えるような夕焼けの中に飛び込んでいき、光の中をどこまでも漂い続けたいと考える。だが、かといって、家の外に出ていきたいというわけではなかった。月に二、三、散歩に出ることもあったが、それは僅かな日の光も届かない夜のあいだに限られた。白い街灯が整然と並んで立っているそのとなりを、行儀よく、はだしで歩いていくだけ。誰にも見つけられることなく、誰にも目をかけられることもなく、目的もなく。俯いて、白線からはみ出さないように、傷ついた素足の痛みを一歩一歩確かめながら、静かに歩いていく。
 静寂が黒い窓に訪れても、沙織は動こうとしなかった。夕焼けが永遠に続けば、この鬱屈した気分から救われるのではないか、そんなふうに考えたりもする。
 
 生産とは無縁の生活ではあったが、普段の食事は一日に二回だけ、母親が届けてくれた。といっても、部屋の扉の前の冷たい床の上に、お盆と一緒に置いていくだけで、声をかけられることもあれば、足音さえ立てないときもある。母親にも母親なりの事情と感情があるのかもしれないと思う。食べたものを返すときは、洗うべき服も一緒に扉の外に置いておく。洗濯された服は時々思い出されたように部屋の前におかれていて、ボロになった部分があれば丁寧に縫ってくれた。半袖では少し肌寒い日が続くと、そこでようやく、季節が流れていったことを理解する。まるで光の届かない海の底の城にいるかのように、外界から漠然と隔絶された生活は成り立っていた。

 その部屋の窓際には、一輪の花が生けてあった。カンナという赤い花で、夏の初めに沙織の母親が何処からか持ってきて、鉢に植えかえ、何も言わずに部屋の前に置いてくれた。それから毎日、沙織は目を覚ますとカンナに水をやり、真っ赤な花に声をかけている。初めはただ、挨拶をしているだけであった。そのうちに少しずつ、自分の思い出や友達の話などを語りかけるようになった。それは、傍から見れば独り言を呟いているだけのようにも思えた。しかし沙織には、赤い花が自分の話をちゃんと聞き、頷いてくれているという奇妙な確信のようなものを抱いていた。
 夕方、日が傾き始めた頃が一番美しく見える時間帯だった。硝子窓を通して部屋に入ってくる射光は、カンナの色にとてもよく似ていて、そのしっとりと水気を含んだ花びらは、ちょっとした拍子に壊れてしまうのではないかというほど繊細だった。彼女は、単調に過ぎていく歳月――ただ起きて寝るだけの生活――を、部屋の中で繰り返してきた。まるで廃園になった遊園地で、心だけがぐるぐると同じ場所を回り続けているメリーゴーランドのように、永遠とも思える動作を無意識に繰り返してきた。ずっと一人ぼっちで話す相手もいなかった彼女とって、赤い花は初めて出来た友達のように、自分の心に安心を与えてくれる存在だった。


                 毎日、午後の二時に目が覚め、それから赤い花に挨拶をして
                 、水を注ぎ、食事を取りながら一時間ほどぼんやりとしたあと
                 、大学ノートを開き、今まで書き溜めた小説の続きを考え始め
                 る………、
                 時々、カーテンを開けて風を中に入れると、一緒に同年代の学
                 生らの楽しそうな話し声が聞こえてきて、その度に羨ましい気
                 持ちになったり、悔しい気持ちになったり、今日はどんな出来事
                 が彼らの間で起こり、繰り返されていくのだろうと考え、ぐるぐる
                 と回る想像に気をとられてしまうこともあった………
 気持ちが酷く落ち込んいるときは、夕暮れの空を眺めた。極まれに太陽が水を落としたように潤んでいる時があり、それを見ると、カンナの花が夕陽の中に溶け込んでいくような錯覚を覚え、不思議と心が休まった。

 書きかけの小説は、その日も捗らなかった。沙織が学校や外で過ごした時期が随分と遠い日々のように思われて、書いているうちに現実感が失われていってしまう。小説の中で主人公が感じたことを表現しようとしても、周辺の描写も、登場人物の心境も、からからに乾上った泉の跡のように、言葉となって湧き出てくる気配が無い。
 無理に言葉を搾り出そうとしているうちに、時折、(どうしたの)とか(なにがあったの)とか(心配してるよ)といった、正体不明の声が頭の中に溢れてくるようになり、それは、時に大きく残響を残すように迫ってくることもあれば、遠くから小さく呟き続けることもあった。そのうちに沙織は、長い間家の中に閉じこもって経験することを否定していた自分を責めるようになった。
 次の日も小説は進まなかった。また次の日も。次第に食事も食べなくなり、カーテンを開けて夕陽を見ることも無くなった。



(どうしたの(なにがあったの
(話せないことなんてあるの(教えてよ
(心配してるよ(ねえ
(心配しなくてもいいよ(ぼくは友達なんだから
(ぼくは



 わたしは まどぎわの あかいはなに
 あいさつをすることも しなくなり
 じかんの かんかくと いしきを
 どこかべつのばしょに おきわすれてしまったように
 くうはくの ながれのなかに ぽつんと とりのこされ
 やがて こんとんとした いしきの だくりゅう に みをゆだねて………
  (何処かでチャイムが鳴っていた
  (部屋の何処かで
    自分の呼吸ではない息遣いが感じられた
  (自分の言動に違和感を感じたことは?
    ――あります
  (今、貴方の後ろには誰かがいるのですか?
       誰かが たずねてきたような気がした が、
       質問の内容を考えるのが恐ろしく思えてきて考えることを止めた(その代わりに、涙が流れ落ち

 
水曜の朝の光、火曜の息苦しさ、やがて水曜の目眩。
昔の懐かしい友人たちの声が耳元に現れては遠のき、
また近づいては、やがて去っていく。
校庭に響いているのは、数人の友達の懐かしい笑い声。
ボール遊びをする男の子たちを横目で追いかけながら、
噂話をする女の子たちの声。ボールがとんとんと
跳ねながら転がってきて、はしゃいでいる男の子たちの
甲高い笑い声。とんだり、はねたりしながら、こちら側へ
駆け寄ってくる。
その中に、沙織の名前をしきりに呼ぶ少年の声があった。
夕暮れの終わり、重く乾ききった意識の中、少年の声に耳を澄ませると、
そのまま目を閉じて、段々と薄く霞んでいく夜の闇の中へ沈んでいった。



2.

 繊細な白い壁が剥がれ落ち、どうしたわけか、そこから
 黒く塗りつぶされたガランドウの瞳が覗いているのだった 
 ガランドウの瞳は、じっと黙ったあとに、少年の声で言った
「月曜日 が過ぎ去って久しいですね」
 頭髪から爪先にかけての冷えきった痺れを耐え続けて
 どのくらいの時が経ったろうか
「明かりを消してください」
 
 水曜日、シャワーを浴びている
 カレンダーを捲ると、音を立てて破けてしまった
 火曜日、一度考え始めると涙が止まらず
 何度も何度も虚空に頭を下げて謝っている自分の姿を
 遠くから眺めている



(どうしたの(なにがあったの
(心配してるよ(話してごらんよ
(心配しなくてもいいよ(ぼくは友達なんだから
(何があったの(話してごらんよ
(ぼくは友達だから
(どうしたの(なにがあったの
(話せないことなんてあるの(教えてよ
(心配してるよ(ねえ
(何を書いているんだ(見せてくれないか
(ねえ(何を書いているんだ(見せてくれないか
(きみの言葉を聞きたいんだ

(心配しなくてもいいよ(ぼくは



 何時からか、何処かで、何かが点灯していた
 信号機の赤のような淡い円形の光が
 交差点の向こう側で青に切り替わる
 それを合図に、実体の無い影達が
 一斉に午後の街を徘徊しはじめる

 ゆっくりと徐行してきたタクシーを何気なく拾うと
 運転手は行く先も聞かずに発車させた
 ぼんやりと嫌な予感がしたので
 一言告げてから降りようとした
 (すみません、降ろしてください
 すると運転手は少年の声で言った
 (月曜日、が過ぎ去って久しいですね



ふと
目を開けて
手を伸ばし
明かりを点けて
カーテンも開けると
何もかも嘘のように思えた
夜空には静かに月が浮いていた
大きく息を吐き出して寝返りを打つ
さっきよりは落ち着いたのかもしれない

「月曜日が過ぎ去って久しいですね」
呪文のような意味の無い言葉を
何度も口の中で反芻していると
数人がカーテンの隙間を潜って
部屋に入ってきたのが分かった
「月曜日、が過ぎ去って久しいですね」「ところで」「明かりは消さなくて良いのですか」「或いは」「水曜日、赤い花を切ってください」「触れてはいけない」「ピンと張ったこの繊細な糸を切ってはいけない」「ところで」「明かりは消さなくて良いのですか」「絶対に触れてはいけない」「或いは」「明かりは消さなくて良いのですか」
(明かりが怖い、…あれは…光ではない
「絶対に触れてはいけない」

ところで
ガランドウの瞳は、少年の声で呟いていた
「月曜日が過ぎ去って久しいのですが」



4.

(ぼくのことだったら(心配しなくてもいい
(きみはきみのことだけ考えていればいい
(きみは誤解している
(ぼくは本当に友達でいたかっただけなんだ

…………………………………………「お母さん」。
いつのまにか人差し指は、ガラスの冷たさに触れ、それが夢ではないことを教えてくれていた。夜の街灯は、水に溺れたみたいに涙ぐんでいた。ゆっくりと溶けていくチョコレートのように、また、滑るように消えてゆく自動車のライトや、騒音や、意識の中に、主張を失った儚い陽炎が、震えながら立っている。
部屋の中で、そっと沙織に語りかけてくれた者に
気がつくことはなく
窓際に一輪の枯れた花が、水のない花瓶の中で音もなく腐敗していて
、初めて気がつく

誰にも愛されていなかった


自由詩 カンナ Copyright 結城 森士 2009-02-02 23:24:03
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