終わりの十五。
榊 慧
みんなして結局生ぬるいところから出てしまう、出されてしまうのが怖いだけなんじゃないか、と俺は教室のほぼ中央に位置する自分の席で悪態をつく。せいぜい中二病にでもなってろ、と。その思い違い、間違った知識、意味の分からん自信を後で恥ずかしがれ、とも。
ものすごく書きたいことがあったのだ。
ものすごい書きたくてしょうがないことがあって、絶対これは次の休日にPCで文章にするぞ、と思っていたのに、全て忘れてしまった。書きたいときにかけないのはひどく辛くて、悲しい。
(これを今読み出しているのなら、嫌気がさしても読むのを途中でやめたりせずにとりあえずなんとか最後まで読んで欲しい。俺は今、それ以外に何も恐れてはいない。途中で読むのをやめられることが今一番怖いのだ。)
俺は15歳になった。15というと何か決定的な感じがする。よく歌の歌詞やらタイトルやらになってたりする。(俺が知ってるのは2曲だけだが。)
俺は学校というものが酷く嫌だった。今でも嫌だ。
俺は恥ずかしながら中二くらいまで、俺はごく普通の平均的な水準の考え方やら価値観やらをする人間で、だのに何故こんなにも異質な扱いを受けるのだ、何故こんなにも俺は仲間はずれされるのか、何故俺はこんなにも…などと思っていた。今になって思う。俺はどうやら同級生や周りの人たちと言葉が違う。俺は彼(彼女)らの言いたいこと、言っていることはまあ普通にわかる。けれど俺が言っていることは何ひとつとして届いていなかった。母親曰く、「周りの人からすると、(俺が、)言ってることの言葉とか話の速さとか、頭の回転が着いていかないか何言ってるのかがわからないんだよ」。
俺は、別に特に頭が良いとかもなく、普通に話してて、そんでそれを俺が人の話聞いて理解してるみたく、相手もわかってくれるものだと思っていた。けれど言われて見ればそうなのだ。前々から、昔から言葉が通じないようなもどかしさを感じていないわけではなかった。「言葉が通じないのではないか。」と強く思い、それを詩にしようとするほど俺は思いつめたりもしていた。
ある人から言われた。「おかしいのは君のほう。それを周囲に求めてはいけない。君は異常なのだ。君が異常なのだ。要は、それぐらい、早熟なんだ。」最近のことである。同時に、「それって、ひどく不幸なことだよ。」と。何故なら、俺だけが苦しむからだ。その、温度差に。
俺が異常。俺だけが違う。俺は常々思っていたことがある。「俺は他の同級生みたいな考えは出来ないだろう。俺は彼(彼女)らとは違い、思考の筋が難解に絡まっている。そして俺の存在する精神世界(といっていいのか。)は他と違い、薄黒い。もうほとんど真っ暗にちかいはず。」
でも、俺は自分のほうが、というのを認めたくは無かった。中学生であきらめたが、一緒に楽しく話せる同級生の友達が身近に欲しかった。他の同級生みたく。わいわいしたかった。
けれど俺はおかしいのだ。異常なのだ。もう仕方がないと開き直っている。
そのことが、もしや不幸なのだというのだろうか。俺の頭の中に新しい知識を入れることは俺にとってこの上ない快感で、静かなところで昏々と文章を読むのは至福の時間だ。(ただし、その“静かな”がなかなか無いので困っている。)そして「あああれはそうだったのか。」「これはあのときの、」と記憶がリンクしていくのも嬉しい。特に変わったことだとは思わない。「これをこうしたい。」「行って、見てみたい。」という計画を立てるのはとても楽しい。(実行するには少なくとも後五年は必要と思うけど。)それで、俺に無い、俺が出来ない、楽しむことの出来ないもので彼(彼女)らでそれをすることの出来ることとは、一体何なのか。
これが俺にはわからない。唯一といっていいのかもしれない。俺は恐らくとても自分本位な人間だと思う。この文章を読んでもらえばわかるように。
俺は何故自分が異常、異質などと言われるのか、思われるのかがわからない。そして何故俺の意思、というか存在?を無いもののように、なかったことのようにするのか。学校を俺が最初から苦手としていたわけではない。学校の方が俺を苦手としたのだ。俺はそもそも友達が欲しいと思っていたので俺から学校を嫌うことはなかった。
しかし出来なかった。だから詩を、拙い詩をかいている。どうしようもない、という説明するのがものすごく難しかったり、どうやっても人に説明できない、理解できないようなものをなんとかして吐き出したいと思ったものが俺が思う芸術で絵画であり詩だと思う。大体俺が詩を書き始めた理由というのは結構不純なもので、えらそーなこと言える様な立場ではそもそも無いけども。
卒業式はおそらく午前で終わる。その後、クラスの大半が級友らと共にどこぞ(女の子ならプリクラ取ったりうするんだろうか。…知らないが。)へ繰り出したり家族に何かしてもらったり、パーティー的な、等々あるだろうと思う。そして当然、俺には何もない。卒業旅行、なんてのは夢にも出てこない。総じて学校生活が良いものでも楽しいものでもなかったと思っているので終わりもまあこんなもんだとは思う。しかし、だからといってなんともいえない置いてきぼり感が否めないのも事実だ。
たすけてくれ、というのは少年だけの特権だ、と俺は自分の詩のなかでかなりストレートに書いた。少年だけの特権。それは恐らく少なくない。「永遠に少年でいたい。」というのはいわゆる「中二病」なのだろうか。恐らく俺のそれは中二病ではない意味でだが、特権、つまり「少年でないと許されないこと(もの)」というのが俺の中であるのだ。それに憧れているから俺は悩む。15歳、の俺は悩む。
俺は手紙をもらうのも出すのも好きだ。俺の出す手紙の内容は面白いものではないだろうけどももらうのが好きなので出すのが好きだ。どこか懐かしい、それこそまるで俺が理想としている「少年」像に近づいた気分になる。手紙を読むとき、とても詩情あふれる空間になっている気がする。書いているときも。これはとても幸せなことだと思う。俺が大きくなり、たまにその人に会いに行けたりできるようになれば良いとも思う。…時間が解決してくれるのを待つだけだ。
基本、静かなところが好きだ。だから今俺がいる学校の学年のクラス、これはもう地獄である。なんといっても騒々しいのだ。もうちょっと落ち着けまいか。俺が決して授業に積極的という訳ではないが、せめて授業中くらい静かにして欲しい。そんで消しゴムやらを投げて俺に当てないで欲しい。イラッとくる。(当然だ。)何と言っても、こちらが哀しい気分になる。ひもじい気持ちになる。人が沢山来る前の図書館が好き。人気のない神社が好き。できれば昼間がいい。けれど家で静けさを保っていられるのは大抵夜だ。…今、夜にこうして文章を書けたというのはとても運が良かった。普段はこうはいかない。
俺はもうすぐ高校へ進学する。
高校に対して、俺は何の期待も希望ももっていない。ただ悲しさしか湧いてこない。将来への不安とか中学から離れる、とかそういうのではない。結局高校でもまた俺は「異常」「異質」となるのだ。誰が何といおうと、これは考えれば考えるほど(考えなくても、)分かりきったことなのだ。そういう悲しさ。その悲しさを思うと、俺はまた更に悲しくなる。そうして「消えてしまいたい」となるのだ。誰かに縋って泣きたくとも、その「誰か」がいないことにはどうしようもないし、ましてや消えることも出来ない。俺はこの感情のために、将来煙草を吸うかもしれないな、と思っている。煙草とは、便利なものだと思う。
この15歳の俺の悲しさを、例えばクラスメイトは理解できない。かといって上手く説明する術を俺は学んでいない。15年では学べなかった。または覚えられていなかった。俺は今、俺が15歳でここに存在して文章を書いている、コーヒーを飲んでいる、それが信じられないことのように思えるときがたびたびある。何で俺は消えていない、何で俺は死んでいない、何で俺は今生きている!俺の視点は俺の中でないところにあるかのように。俺の視点だけが残ってるような錯覚も覚える。俺は自分で自分を説明できないことにいらだつようなふつうの15歳でもし何かが(もしくは誰かが、)俺のことをやさしく包み込んでやさしいやさしいことをしたら、人前であってもそれを憚らずに泣いてしまいそうなほどの、ふつうの15歳なのだ。
もっともっと伝えたいことがあってでもそれが上手くいかない、そんなことばっかりの15歳なのに、
何故俺は異質だったんだ、
俺は、ただ、さみしいのとかなしいのには弱い15歳なのに、なんで俺が異常で異質なんだ。誰にどういわれようが揺るがない事実、それが何故「異質」であることだったんだ。俺は、人に馬鹿にされない、からかわれない一日を送りたかった。落ち着いた心で学校をすごしてみたかった。それのかなわなかった俺が、何故「異常」!
手紙は、潔くてはかないものだとつくづく思う。やはり詩情があふれている。
読書は静かなところがいい。ことん、ことんと言葉を頭に入れていくのはとても楽しい。
卒業、それに関してのイベント的なもの、それは一切無い。卒業式以外。
俺の15年間とクラスメイトの15年間では、一体何が決定的に違うのか。おそらく危機感が違うのだろう。
俺は15年目の冬を越す。15歳、というのはきっと大切なものなのだろう。何となくそう思う。この「異常」で「異質」な俺の15歳は大切かどうかまだわからないが(恐らくそれは大きくなってから思うことであるのだろう。)、間違いなく「異常」で「異質」な俺にも平等に「15歳」は来た。これから何年、この悲しみを味わうのだろうか。俺はただの15歳でしかない。