荒川通り3丁目
リーフレイン

やっさん
やっさんは九州から中卒でやってきた人だった。
工場に勤めて、結婚しそこなったまんまで55になった。 なんかの副職長という肩書きがついていたけど、給料は安いまんまで、九州から出てきたとき入った6畳一間に3畳の台所がついた部屋にずっと暮らしていた。
酒が強く、上手な酒飲みだった。炭坑節を歌うのがうまかった。
 9月の連休明けの火曜日、やっさんは工場にでてこなかった。心配したカネさんがちょっと抜けて見に行くと、ちゃぶ台の横でパンツ一丁で倒れていた。もう冷たくて、臭かった。やっさんは3年前から癌になっいて、遠からずこうなるはずだった。そうなるだろうと思ったからか、戸口の鍵はいつも開けっ放しだった。
 九州から甥だと名乗る人が骨を迎えにきてくれた。ちょうど前の年にたまたま町内の組長を務めていたやっさんは、市の掛け捨て共済保険に入った。100万円が下りて。葬式はそれで賄えた。
やっさんが住んでいた部屋は、綺麗に清掃されて5千円家賃を下げて貸し出されている。 


口入屋
背戸の古い借家3軒は、40年来、口入屋がまとめて借りて使っている。
6畳二間と台所と風呂のついたそれぞれの平屋に、二人ずつ人が入っているらしいのだが、みな一様にこっそりと住み、破れたカーテンは破れたまま。ややもすれば雨戸も閉めたままだった。2台の古い乗用車が出たり入ったりしているので、ようやくいるのが分かる。洗濯物も、一度もみたことがない。


松山さまのお宮
 三角形の小さい敷地に、赤いお社が建っている。
昔、このあたり一体の長者さまだった松山様のお社だ。
100年前には10町歩のお屋敷があって、河川をずっとくだったところにある大きな材木問屋から嫁ごをもらった。 そのときの嫁入り行列は、今でも口に上るほどに立派で、大八車にたんすやら、長持ちやら山のように積み上げられた桐の箱やら、大きな座敷机やら、立派なお道具を乗せた行列が1町歩にわたって続いた。お道具お披露目はすばらしいもので、化粧品ひとつとっても、ざるいっぱいの口紅やら、ざるいっぱいの白粉やら、どかどかと並べられ、「お披露目はするけれど、盗られては大変」とばかりに、大勢のおなご衆がにこやかに見張りに立っていたそうだ。
 松山様は戦後の農地解放で没落してしまい、今ではその赤いお社だけがぽつんと残るばかり。
嫁ごのご実家だった材木問屋もとうに左前となり、晩年の奥様は借家住まいで亡くなった。お手伝いさんが一人、ずっと一緒に暮らしていた。

敬三さんの家の前
杉さんという名の男が毎日立って見張っている。
敬三さんの息子は医者で、杉さんは息子を敬三さんの息子の病院で診てもらっているときに亡くした。
たった一人の息子で、大学を出してやって、立派に就職して、かわいい嫁さんをもらって、かわいい孫が産まれた時だった。杉さんの息子は1週間高熱が続いて死んでしまった。 ただの風邪だと言われていたのに。
嫁さんは実家にもどってしまい、孫もつれていってしまい、杉さんの家は火が消えたように寂しく、悔しくて、どうにも気持ちをもてあましたあげくに、敬三さんの家の前で怖い顔をして立つことにしたらしい。
1年すぎて、2年すぎて、7年たってもまだ、敬三さんは杉さんの怖い顔をみて暮らしている。


自由詩 荒川通り3丁目 Copyright リーフレイン 2009-01-10 22:57:33
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