冷戦のアナロジーとしての日本野球
がらんどう


1989年にベルリンの壁が崩れたとき、すでに日本野球もその歴史を終えていたのである。

太平洋戦争終結後の1946年に早くもプロ野球ペナントレースは再開された。戦後の復興の中で連盟加盟の8チームの他に2チームが加盟を申請するが、この申請を連盟は却下する。しかしこの際マッカーサーから共産主義への防壁として新リーグ構想の話を持ち掛けられる。1947年、これに乗る形で連盟入りを却下された2チームにて国民野球連盟が結成されることになるが、連盟ほどの支持を集めることは出来ずほどなく資金難によって頓挫することになる。

1949年、ショーリキー・マツタロウが日本野球連盟のコミッショナーに就任し2リーグ制を提唱する。読売を中心とした右派リーグと、毎日を中心とした左派リーグの二つを作り、マスメディアを核として相互発展を図るという目的であった。
南海・阪急を中心とする賛成派は「関東に比べて少ない関西での集客増のため必要」と主張。一方、巨人・中日を中心とする反対派は「球団増により、パイを分け合うことになり利潤が小さくなる」と反発し、延々と討議を続けるものの長らく解決を見ることはなかった。

同年、反対派の急先鋒であったシモヤマ国鉄スワローズオーナーが礫死体で発見され迷宮入りとなるも一説にはショーリキーの陰謀であったと言われている。そして巨人においてもミハラとミズハラの関係悪化に端を発する対立が表面化、巨人軍は両派に分かれて内戦を繰り広げることとなる。
1950年、事態を重く見たGHQマッカート少将は内戦へ介入し鎮静化を図るが、同年朝鮮戦争が勃発、内戦は泥沼化の様相を呈すこととなる。
だが、1955年、阪神が反対派に寝返り、両陣営は喧嘩別れする形で東側球団と西側球団に分断されることとなる。これがいわゆる55年体制であり、1993年の逆指名制度の導入が逆風となった総選挙で巨人が過半数割れし西武も大敗したことによって実質的に崩壊することになるのだが、その背景には同年のJリーグ開幕による影響もあったものと考えられている。

1959年のキューバ革命によって成立したキューバはソ連から顧問団を迎えるなど野球の発展に力を入れ、日本球界は1962年キューバ代表に屈辱的敗北を喫す。これがいわゆるキューバ危機であり、この際にキューバ寄りの発言を行った社会党のアサヌマ委員長は巨人ファンの青年に刺殺されることとなる。
1966年、ドラフト制導入に反対する勢力を一掃するクーデターである文化大革命が起き、空白の一日により権力を掌握したエガワ・スグルは当時の第一書記コバヤシを粛清し阪神へと追放する。
1969年には球界の黒い霧事件が発覚、これにより読売から資金提供を受けていた時の総理大臣タナカ・カクエイは逮捕されることとなる。これに伴い1970年のよど号事件、1972年の浅間山荘事件とテロによって読売帝国主義によるプロ野球支配体制を批判する事件が続発するが、1975年にベトナム戦争が終結すると厭戦気運が広がりプロ野球人気も低下することなり、元プロ野球選手の社会復帰が大きな社会問題となった。
これ以後目立った衝突は見られなくなるも、1980年に開催されたモスクワオリンピックでは、野球が正式種目として採用されなかったために日本とアメリカはボイコットすることとなる。

ベルリンの壁崩壊後、ノモ・ヒデオの歴史的訪米およびそれによって生じたグラスノスチにより、それまではイメージとしてしか存在しなかった大リーグが現実的なものとして立ち現れることとなる。これ以後アメリカへの移民が急増するが、ナカムラ・ノリヒロはメッツと契約寸前まで至りながら、それを年俸吊り上げ工作として利用し、モラルハザードとして批判されるとともに年俸の急騰をもたらすこととなる。深刻な財政危機に陥った東側球団からはローズやコクボといった外国人労働者が読売に流入することとなり、球団間に深刻な貧富の格差が生まれ、このことがテロリズムの大きな源泉となったといわれている。2001年9月11日、ゴジラがNYを襲撃し、この襲撃により貿易センタービルは崩壊してしまう。読売は130億ドルの追加支援を決定するも、国際世論は「読売は金だけ出して血を流さない」と読売を批判、それを受けシドニーオリンピックにはプロ選手を派遣することとなる。

グローバル化を推進する当時の読売の指導者ワタナベ・W・ツネオは、フルタ・ホシノ・北朝鮮を悪の枢軸と名指しして批判、フルタ体制はストライキにより反読売を企てるが、高額年俸という既得権益にしがみつこうとする野球選手は既に労働者ではありえず、革命の夢は潰えていたのである。




自由詩 冷戦のアナロジーとしての日本野球 Copyright がらんどう 2004-08-11 14:26:15
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