その痛みや嘆きや喜びや想いに優先権を与えないと。
石川和広

 白井さんのまどみちお論のところでずいぶん息巻いてしまった。あれこれいってはいるものの僕のいいたいことはシンプルです。
 まず、自分でいいなと思ってしまうことはいったり、やったりしたほうがいいということです。僕自身文章や詩を書いたりすることがどれだけうまくできているかは心もとないんですが。でも、人に頼まれもしないのに、おもいついたことを書いてしまうというのは、僕がアホだからということもあるんだろうけれど、たぶん好きだからかなと。

 こんなこというとお説教みたいですけど。僕が自信満々の人のようなんですが、そうでもありません。感じたこと、考えたことを裏切ってないことにしてしまうと。そしてそれをいわないでいると、自分が辛くなり心が苦しんで死んでしまうからです。
 辛いときに痛いということを我慢して少ししか言わなかったら盲腸が腹膜炎になり1ヵ月も入院してしまいました。
 また、悔しいのにニコニコして誤魔化していると非常に同級生からバカにされ、コケにされました。
 だからいやだったら、いや。いいものはいいと、とりあえずいうか、自分の中にでもせめて保持しておかないと僕は事実上死んでしまうだろうと思いました。

 僕のそういう態度は、おっさんになってもあまり変わりませんでした。少しは賢くなったつもりだったのですが、やはり疑問をもったり、なんか感じたらそれを何か展開させたいんですね。意地っ張りです。ひつこいです。ちょっと変です。展開させて人に触れてもらうことでおうおうにしてけちょんけちょんですがそれはしょうがない。でも腹は立つ。

 病気ならまず何か変だということをいう。感じる。いろいろ調べる。どこがおかしいかがなんとなくわかる。病院に行く、みたいに。しかし痛いのに痛くないかもといっていたら伝わりませんね。あるいは死んでしまう。藪医者に当たるとヤバイ。
 意外に芸術上の発想、日々の思いもそのようにウタカタのものなので、死んでしまいやすい。自分がいいとおもったものを自ら踏みにじることがいちばんくやしいのです。自分が好きだと思う人にふられるのが一番悔しいです。しかし考えたり感じたりすることをまずは大事にしていかないと、すごく辛いです。作ってみてつまんないということはあるし。ふられてツマンナイ男(女)だったということはあるけれども。別に告白したり作品を即発表することをしなさいといっているわけじゃなくて。浮かんできたものを胸に留めておくということ。
 そっからああでもないこうでもないが始まるのです。作品だって書いてみないとしょうがない。そっからこれまずったなあとか感じます。
 料理でも語学でもおしゃれでもそうです。へんてこになりながら覚えていくしかありません。そういう試行錯誤をこのフォーラムが涵養しうる場になっているかというとわかんないですが。

 けど、自己発見というとくさいですが、これは何だろう?しらんけど面白いそう思う自分は何者で書いたものは何でと考えていく作業をまず大切にした方がいいと思います。白井さんのいうようにわかるわからないは大事ではないかもしれない。しかしひとまずはつかんだと感じたこと、その痛みや嘆きや喜びや想いに優先権を与えないと。これは批判ではありません。
 それは誰かにしてもらうとか誰かにこう云ってやったというあれこれとは無関係で、ああ自分はこう思う人間なんだなあということから謎は始まると思うのです。

 白井さんの議論とは大幅にずれてしまったように思いますが、僕もまどさんの詩は好きです。しかし、まどさんはわかったりわかんなかったりじゃなくて、どちらかといえば、自分の感覚を分かりやすく書く人ではあれ、わかったりわかんなかったりしながら描いているように見えてまるで逆、つまり自分でつかんだもんを譲らなかった。でないと98まで詩を描き続けるよい意味での図太さは持ちえないと思うのです。けっきょく結論が白井さんの議論と同じことになってしまって、息巻いていた自分が恥ずかしいのですが。。しかし白井さんの議論は優しすぎて、世知辛いこの世界で、書き手がサバイバルしていくには何か足りない気もした。
 作品や感覚の元になる根っこは非常に繊細だからこそ全力で風雪に負けないように手塩をかけたい。できてませんがそれが僕の理想です。

 僕は実は小心者だからこうしていうのかもしれませんが。。


散文(批評随筆小説等) その痛みや嘆きや喜びや想いに優先権を与えないと。 Copyright 石川和広 2008-11-21 11:00:12
notebook Home