連帯を求めて孤立を恐れず
結城 森士

仲間と友達は違う。
僕はずいぶんと長い間仲間を欲していたが、本当に大切な存在は仲間ではなく友達だろう。なぜ友達が大切なのかは「そういうこと」という詩に記した。



仲間と友達の違いは何か。
仲間とは、「共通の目標」や「共通の敵」がある時に、互いに団結できる間柄のことと言えるだろう。
例えば僕は長い間、地元のスポーツクラブに入っていた。そこでは、大会優勝という共通の目標や、相手チームという共通の敵がいた。また、苦しく厳しい練習をともに乗り越え、ライバルとして仲間として友達として、励ましあい、助け合いながらお互いの結束を高めていた。

 (いじめなどする必要はなかった。共通の敵を作り出す必要もないくらい充実していたのだから。もちろん、ライバル同士の確執や、気の合わない者同士のいざこざはあったが。)

学校のクラスメイトなんかとはわけが違っていた。なんといっても学校のクラス特有の個人主義(個人の目標、個人の戦い)よりも共通の敵に打ち勝つこと、共通の目標を達成することの方がはるかにウエイトが高かったからである。
チームの中にも仲良しグループは合ったがそれぞれが連帯を求め合っていた。仲間はずれなんてできるはずがなかった。誰かが困っていたら必ず誰かがフォローしたし、誰かが一人でいたら、必ず誰かがそばに行ってやっていた。


だが、学校では違った。
学校のクラスメイトは、仲間意識も低いし、それどころか逆に、いじめる対象を作りたがった。
共通の敵を作ることで、お互いの結束を高めようという感覚だろう。個人同士のいがみあいが露骨で、全体としての調和はあまり重視されなかった。
連帯を求めようとしない。代わりに仲良しグループには絶対に入りたがる。
連帯を求めず、孤独を恐れる。という言葉が見事に当てはまる。



連帯を求めて孤立を恐れず。
60年代、全共闘の時代のキャッチフレーズだったそうだ。臭い台詞だという人もいる。僕はそう思ったことはない。それが当たり前だと思って生きてきた。

だが今の社会全体を見てみると、誰も連帯を求めてなどいない。力を持っているものが一人勝ちをして、あとの潰れていく弱者は置いてけぼりだ。
誰も手を差し伸べようとしないし、誰もフォローしようとしない。目標はあくまでも個人個人の競争に勝つことであり、「全体をよくしよう」という発想はほとんど感じられない。

「え?全体を良くする?なんで?」
「全体を良くするの?え?私が?」

みたいな調子である。お金はあればあったほうが良いに決まってる!だとか、結局お金が一番なんだよね!と言って余り物事を考えずに割り切ってしまうかあきらめてしまうような人が多い。
要するに社会に属している意識がほとんどないため、誰もが無関心なのである。
その裏に押し付けられた「自己責任」と「弱肉強食」、そして「達観(あきらめ)」。
こんな政策打ち出されたら、全体の調和も考えられなくなる。
社会はますますシビアになっていき、人間関係は余計にギスギスしていくことだろう。
もしそんな社会が嫌なら、変えていくべきだ。そのためには、僕たちはもっと積極的に社会に参画しなければならない。一人ひとりが社会に対する責任を感じ、連帯を求めていけたらすばらしいことだと思う。

「一人ひとりがきっと分かり合える」「想像してごらん。戦争のない世界を」
根拠はないが、決して失ってはいけない自信だ。少なくとも僕は絶対に達観したくない。仕方ない、なんて言ってあきらめたくない。答えなんて無いものだ。答えのない世界に耐える強さを身につけたい。大人だからなんていって割り切ってしまいたくない。そんなくだらないものが大人の精神だなんて思わない。


人生において、友達は何よりも大切だ。その友達を大切にしたいなら、仲間が必要だ。
連帯を求めて孤立を恐れずの精神を、大切にしたい。







P.S.社会における共通の敵はなくとも、共通の目標はいくらでもある。共通の課題と言ってもいい。挙げれば、それこそきりがないくらいだ。


散文(批評随筆小説等) 連帯を求めて孤立を恐れず Copyright 結城 森士 2008-11-20 09:32:51
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