詩のふもとへ問いを発する前夜に
白井明大

 ながいながい変わりゆく道の、いま入り口に立っているところで とそのように思えみえるのは、この世の中であり世界のことです。

 いまリーマン・ショックなどから俄に表立ってきた(それ以前からすでに進行していたのでしたが)ことが、市場を優位に据えた新自由主義の終焉になるものだとして、ではあたらしい秩序づくりはこれからだということです。

 あまり「破綻」ということには過度の不安はいらないと思います。反面、予断がゆるされるというようなことでもないようです。ふう。

 ◯◯◯を買って、売ったら、差額のいくらいくら儲かった、というような儲け話に乗っかった人たちが、まるごとコケて、大損をしたということです。そしてその大損のツケは、ほとんどの国の人が、市場というお金で売り買いがなされるところにいるこの世界では、ほとんどの国の人ひとりひとりにまでまわってくるということです。おぉ。

 なにが問題なのかについて、共感をおぼえるのはたとえばこうした記述です。
「立ち往生の理由。」カフェ・ヒラカワ店主軽薄 - 楽天ブログより
http://plaza.rakuten.co.jp/hirakawadesu/diary/200811020000/

「もしそこに考察すべき問題があるとするならば、
何故ひとは一夜にして崩れ去るような価値観に支配され
何故ひとはかくも脆い信憑に帰依してしまうのかという
ことだろう。
そのことを知るためには、今行われているような
金融や経済の分析はほとんど役に立たない。」

 湾岸戦争のとき、同時多発テロのとき、四川大震災のとき、日本の詩人が言動を活発にしたのだとしたら(その場に立ち会ったのではないのでこれは伝聞での知識でしかありません)、では、今回のこれにどう向き合うのだろう? という問いは立てられるべきでしょうか。そうだと思っています。

 では、どんな道すじが、これからつけられるべきなのでしょう。

 寡聞のせいですが、まだ、詩人からこのことについて明確なスタンスの表明がなされたことを知りません。

 根のないお金儲けに走ってはいけない、地に足をつけて暮らすのだ、とは今後多く目にすることかもしれません。それと歩を同じくするように、第一次産業の大事さがいわれるということも今後増すのだと思います。
 このどちらも大事だと思いますし、食糧のことは、経済の動揺とはべつの流れで取り組みの必要がいわれてきたことでもあるようです。

 ただ、大事だとはいえ、問題の中心がそこにあるかというとあまりそうには思えず、上に引用した「何故ひとは」という問いのほうに引きつけられるのです。

 金融や経済の分析では答えに届かないこの問い、詩はどう答えるのでしょうか、そもそも答えられるのでしょうか。

 このことこそ「いまにはじまったことではない、詩はずっとこの問題を見据えてきたのだ」という答えかたはあるでしょうか。

 ふしぎに思うのは、「9.11」以後などと称してあれほど詩人が動揺していたあの時期にくらべて、いまが静かだということです。本当にふしぎです。あのときよりも、いまのほうがまだ、転換点として重要だと思えるくらいです。そうではないのでしょうか(けっして同時多発テロの事件を軽んじるのではありません。アメリカの影響力が大きい時代にあって起こったできごととしてみたとき、そのアメリカの影響力が変動している度合いとして、今回が決定的であるように思えるということです)。

 いま、詩が根ざそうという、その根をどこに張るかが問われている、そのように感じています。

 なのにもかかわらず、この反応の静かさは。

 大きな波がくるまえは、浜辺はいっしゅん静まるそうです。もしかしたらいまはそんな静かさなのかもしれません。ですがまだ、端緒についたところか、糸口をみつけきれていないか、のあたりなのでしょうか。
 あるいは、詩人もまた生活する者として動揺し、反応しきれていない、などという羽目に陥っているのでしょうか。
 このどちらなのかは、詩誌の動きをみれば、一端はわかるものなのかもしれません。湾岸戦争も、9.11も、四川大地震も、おおいに語られたことなのですから。

 得をしようとする発想から、益を分かち合おうとする発想へ、移行することが大事だと、まず考えます。
 それが大事だということと、詩の根ざそうという土壌をなにとみてどこに置くかということとは、どのように結ばれるものなのか。いま起きていることと、自身の詩論とを結び直そうということは、より深く、いまの目の前のことをみつめ、感じ、日々を生きるということだと思っています。

 感じ、思い、考え、ときに踏みとどまり、それらを吸い込み、おのずとあらわれてくるように詩があらわれてくるというような、そうしたことが実際なのだと思います。からだごと、世界に向かい合い、そこからことばを汲み上げるような。

 そのとき、どこにどのように向き合おうとするのか。おそらく、しぜんななりゆきとしては、保守的に、保身的に、保護的に、個人も会社も国も動いていくことになりそうです。ですがそれは、持てる者だけがたすかり、持てない者がこまる結論が先に待つ道だと思っています。
 そうではなく、持てる者と持てない者との別なく、みなが生きていく道を模索するのがよいはずだと思います。

 その実践は(たとえばいまセーフティネットの整備などといわれているように)他分野でもできるでしょうが、では詩は、詩の場においては何を問いに置こうというのでしょうか。


散文(批評随筆小説等) 詩のふもとへ問いを発する前夜に Copyright 白井明大 2008-11-06 04:38:18
notebook Home