かがやかせるもの
白井明大
藤井貞和『自由詩学』にこんな一節があります。
「思いようによっては、さびしいことかもしれないけれども、日本語の詩にとって、真にだいじなことは、等時拍であることからみちびかれることとして、(ア)音韻の一つ一つを大切に、丁寧にあつかうということと、その音韻によって、(イ)意味がどこまで輝くか、ということに尽きてしまう。」
(等時拍というのは、ことばが「弱強や長短のアクセントをも、まとまりをも、もたない」ということだそうです)
*
ことばの響きが、意味を輝かせる。
この本を読んでから、そうしたことが意識の端にありました。
ですが、貞久秀紀の「木橋」(「季刊びーぐる 詩の海へ」創刊号)を読んでいて、逆のことはあるのだろうか、と思いました。
意味が、ことばを輝かせる。
「木橋」を読んでいると、ことばの並びそのものからまぶしさを感じます。
もう、読んでいて、ほとんど視覚的にまぶしいのです。
「木橋」にかぎらず貞久秀紀の詩はそうなのですが、この詩を読んでいてこうしたことが思い浮かびました。
とはいえ、
意味が、ことばを輝かせる、というのはどういうことなんだろう?
ことばの響きが、意味を輝かせる、というのとどう違うんだろう?
そんな疑問をまだ整理できないでいるのですが、実際に詩を読んでいて感じることは、ここに書かれてある意味を解しつつ、詩句なり詩行なりを読んでいくと、もうまぶしい、ということです。
文体、ということにも関わるでしょうが、文体ということであれば、ことばから意味への作用も、意味からことばへの作用も含まれるかと思います。
また、意味とことばとは分けられないということでいえば、あくまで音韻が輝かせるのが意味だと、では、意味が音韻を輝かせているように感じるのか?と自問自答すれば、音韻ではなく、そこに書かれてある文字がまぶしいと感じるんだ、というのが答えです。
意味をふまえていきながら読んでいると、とつぜんに文字がまぶしくみえる瞬間が訪れる、ということです。
こうした経験は、じつはけっしてめずらしいものではない気がします。
ただ、そのときなにが起きているのかは、ちょっとたちどまって考えたいことのように思いました。
音韻が、意味を輝かせる、ということさえ、わかったような気でいたけれど、ぜんぜんわかっていなかったのだということが、明らかになってもきます。
まぶしい詩がいまもかたわらにあります。
*
最初の二連を引用してみます。
きのう来たとき道にあり、目じるしにとひろい上げ、木橋までは
もちあるいた石がゆくさきにみえる。
たとえみえてはおらず、忘れられてあるとしても、いまも木橋で
ある板は、歩みわたれるもののように簡素に溝にわたされている。
(貞久秀紀「木橋」より)