洗濯バサミで鼻をつまんで寝てたのよね、、
リーフレイン

 「とてもほしいものがあったとして、それは多分手に入らない。」
そういうときは、欲しそうな顔をしなければとりあえず軽蔑も同情もされないですむし、大きな落胆も感じないですむ。こいういうことを身に着けたのはいつだったのだろうか?よくわからないぐらい小さい時から、さまざまに諦めたそれは、飴であったり、好きな子であったり、ぬいぐるみであったり、高い鼻であったり、一人だけの部屋であったりした。欲望とか虚栄心とかまあ、そういうものとセットになっていることが多くて、わりと楽に無視できたのだけれど、頑張ればなんとかなったかもしれないとか、一生懸命説得すればなんとかなったかもしれない、というようなものだったときは、虚栄心とかいう範疇ではわりきれなくて、正直に欲しがらなかったことを後悔してしまったりする。

 何なら欲しがってもよくて、何は欲しがるのはまずい かというのは案外と難しい判断で、人間誰しも、欲しがらないといけなかったものをやめてしまったことは多いんじゃないだろうか。とりわけ澱になるのは、本来自分だったはずのものを奪われたときで、抗議すらできなかったりすると、「抗議すらしなかった」自分に対して、罪悪感と後悔の念に襲われてしまう。しかも、それが我侭であるのか、ささやかな自己防衛であるのかという区別はやっぱりかなり難しく、悪心から発したものではないということを自分に問わないといけなかったりするのだ。

 生命はエネルギーと時間で、自我をもった私はそれらに私の意味づけを求めてしまう。一方で生命は共有されるものでもあって、時間もエネルギーもさまざまに共有されていく。からみあい、奪い合い、与え、連鎖していく煩雑な時間の中でささやかな”私”はあまりにもささやかだし、それに意味を与えることすら本来ナンセンスなのかもという疑問も芽生えてしまう。怒涛のようなエネルギーの中で”私”をキープするためには、周囲よりももっと密度の高いエネルギーが必要なのだろうと思ったりもする。

 こんがらがってしまったエネルギーをうまく循環させるために、柄谷は譲与性ということを説いていた。まあ、平たく言えば、「受けた恩を次の誰かに返す」ということかなと拙い理解をしている。ギブ&テイクの関係だと常に1対1で対応してしまうから、そこでエネルギーの循環が完結してしまうのだけれど、テイク&ギブ サムボディ ならば1対多となっていく。循環の系が広がるのだ。

 私は我侭であるのだけれど、その我侭は小さい系の中にハメラレテしまっているときにより鮮明になってしまう。「ギブしてもらった何かをちゃんと循環させて存在の倫理的バランスを取りつつ、お互いに少し自由に生きる」という視点がみんなで得られると、もうちょっと「欲しい」といえるようになるかもしれないなあと思ったりする。


散文(批評随筆小説等) 洗濯バサミで鼻をつまんで寝てたのよね、、 Copyright リーフレイン 2008-10-29 22:46:29
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