過日の怪物
猫のひたい撫でるたま子
疲れたときには本を読む。
出発前に友人から借りた小説をゆっくり読んでいる。本は与えてくれるだけだから優しい。言葉を与えてくれるものはそれがどんなものであれ優しい。
それでも、私を可哀想と形容する人たちはみんな愛想をつかしていなくなってしまう。私を植物のようにしか考えていないからだ、考えなくていいというレッテルを貼るからだ、人間扱いしない人に対して、私も人間扱いはしない。
会ったこともない作家の、これから会うこともないだろう作家の独り言は、人の失敗や過去を彩ってくれる。
過ぎてゆく時間に、時計の時間通りに追いつくために生きるのではなく、自分の時間の進み方をして、それがあまりに遅かったとしても過去に生きていなければ良いということにする。どんなに早くても未来は追いこせない、だから追いかけたくなる。
収集のつかない事柄がある。事実を確かめたところで、誰かにそれを打ち明けたところで、答えにはたどり着かない。本当には知ることができない本当のこと、私が決めるひとつの答えだけが本当のこと。いずれ間違った答えだと気が付いたとしても、答えを出せれば次の設問がやってくる。
人の心は入り組んだ迷路のようだ、上を見ればまっしろで、下を見れば真っ暗闇で、ガラスで出来たついたての奥に出口が見えたとしても、まっすぐに進むことはできない。諦めて引き返そうとしたところで、歩いてきた道はもう既に変わってしまっている。それを頭まで振り上げて叩きつけて壊しても、尖った破片で怪我をするだけだ。
沢山の言葉を拾いながら本を閉じて、それらを集めたところで小説に解決は載っていない。
私が生きる現実と私が読む小説との違いは、どんな終わりにしろ、ここ、という地点でお話を終えることができないところだ。
ホームシックなんて現在ここが家だからそうではない。言葉が通じないのも、日本にいたってほとんどがそうだ。
不足を嘆くか、不足をどう足らすか、際限のない文句をいうだけか、考えて進むのか、全ては私にかかっている。私には私個人を生かす責任がある。
選択肢がないのは幸せなことで、毎日やるか、やめておくのか、決める選択肢は二つ。どんなに素晴らしい昨日より、どうしようもなく見えない今日のほうが遥かに自分に近い。