自由意志と責任−「存在の彼方へ」を読んでみる7
もぐもぐ

*書いているうちに話が段々込み入って如何にも「哲学」っぽくなってしまった。
どう纏めて良いか分からなくなってしまったので、とりあえず「レジュメ」的に投稿して、日常的な観念に引き戻して考え直す作業は次回行いたい。


「存在の彼方へ」(生の利害からの超脱)を巡る探求が、「私」とは一体「誰」であるかの問い直しに繋がっていくのではないかということを先に指摘した。

レヴィナスは、これを「主体性」の問題と捉える。

主体とは何かというと、色々な規定の仕方はあるのであろうが、古い形で言えば、「第一原因」である。宇宙を、世界を、人間の行動を動かしていく、最初の原因。「私」とは「誰」か、という問題は、この「第一原因」が一体「誰」なのかということを問い直すことと重なっている。

別の言い方をすれば、これは「自由意志」についての再検討である(「私たちの企ては<自由というもの>の彼方に至ろうとする企てである」(p33))。普通私たちは、自分に自由な意志があり、自分が何をしたいか、これから何をするのか、自分の自由な意思で決定できると考えている(或いは少なくとも、そういう見方を前提とすることをしばしば要求される)。これは、人間(個人)を、宇宙を、世界を、人間の行動を動かしていく、「第一原因」と捉える見方である。所謂「合理的主体」はこのような人間観を前提にしている。理性的に考えて、そこから割り出された結論に、自発的に従う「ことができる」。これは、人間が自由意志をもった、即ち「第一原因」だから可能である事柄である。或いは多くの「理性的議論」、説得は、ほぼこうした人間観を前提とする。相手が「第一原因」であるからこそ、それが納得して一言「では、そうします。」と決定してくれれば、その言葉はほぼ自動的に実現されるのである。

現在純粋な形でこの「自由意志」を認める人は殆ど居ないだろう。大体の場合、これを緩和するか、或いは折衷した形での「自由意志」の立場に立つことになる。例えば「欲望」なり「快」なり「無意識」なりの概念を持ち込むことで、人間が自分の「自由に」ならない何ものかに束縛されていることを承認する。だが、かといって完全にコントロールされてしまっているわけではない。一定の範囲に限られはするが、一応「自由意志」は認められる。例えば功利的な理性として、その「欲望」なり「快」なり「無意識」なりを予め計算に入れて意思決定をすることで、そうしたものに囚われていたとしても、最終的には「自由意志」を貫徹することができると考える。現代の人間観は凡そこうした立場に立つものと思われる。(意思が強い弱いとか、やりたいこと・目標を持っている持っていないとか、個人の人生観のレベルでも、「欲望」や「快」や「無意識」に負けてしまわないでそれをコントロールできる「自由意志」を持つことが称揚される。)

だが、レヴィナスが立つのは、この「自由意志」論及びそのバリエーションとは、根底的に異なる立場である。つまり、誤解を招くかもしれないが、敢えて単純化して言ってしまえば、人間の「自由意志」が働かない場面から発想を始める(「自由意志」自体を否定するわけではない。「自由意志」が働かない場面も包含して説明できる理屈立てを目指すわけである)。人間は、「他者」に服従している、そうレヴィナスは捉える(「存在の自己疎外さえ、・・・「他人のために身代わりになる一者」、「他者のための存在」という必然的な奉仕の一様態・・・にすぎないのだ」(p139))。

これは単純には、「倫理」について論じようとする者には半ば必然的な道のりである。個人の「自由意志」がどのようにして拘束されるのか、そのような拘束が可能なのか、「倫理」について論じるものは必ずやこの点について一定の説明を与えなければならない。
この説明は、原則的には、「自由意志」概念の内容規定の変更によって行われるより他ないだろう。「自由意志」を古典的な「第一原因」と見なせば、そこには「絶対的自由」(例えばサルトルが語るような)があり、如何なる外部的権威もそれを拘束することは不可能な筈である。「倫理」を語る者は、「自由意志」が「第一原因」とは違うものであることを論じなければならない。例えばカントは、自由意志を、理性の立場からする自己拘束の「可能性」と見なしたのだった。

レヴィナスは、「自由意志」を「責任(応答-可能性)」であると考える。どういうことかというと、「自由」(何かを「無視」できること、否定性)という語は、意思というものの現実を適切に描写しておらず、「責任(応答-可能性)」(何かに「応じる」こと、無視しないこと)という語で描写した方が、より正確であると考えるわけである。このような変更を行うことによって、レヴィナスは、「自由意志」論につきものの、「どうしてその倫理規範に拘束されるのか」という問いを予め免れる。
(「責任、それは主題化不能な召命に対する応答である。主題化不能なものであるがゆえに、単なる呼びかけではなく外傷であるような召命。いかなる自由、いかなる意識、いかなる現在にも先立って背負わされた借財に対して責任を負うこと、それも、この借財について何らかの考えを抱くに先立って責任を負うこと、それが責任という応答である」「・・・責任は肯定的なものであって、果たされれば果たされるほど増大してゆく・・・責任は、ある理念を無限に追求するよう命じる当為ではない。無限の無限性はこのような追求とは逆方向を向いている。・・・いや増すこの未済額、それを栄光と呼ぶこともできるかもしれない」(p43)
「責任ならびに服従は授与された命令ないし契約に先立つ。・・・命令が表明されるよりも前に命令に従うこと、それが責任の最初の運動であるかのようだ。・・・(責任を命じる)命令は、命令に服従する者によって、命令への服従それ自体をつうじて表明されるのだ」(p46))
なお、これが恣意的な変更であるか適切な変更であるかは、究極的にはこのテーゼを受け取る個々人の現実感覚にかかっている。


では、レヴィナスは、一体どのようにして、「自由意志」を「責任」に置き換えることが出来るのか。
とりあえず、「自由意志」の概念を突き詰めていくところから見つかるものを追っていこう。

実は「自由意志」論というのは、「真理」や「理性」を重んじる哲学の伝統においては、もともと原理的に、諸手を挙げて賛成するわけにはいかない観念であるように思われる。というのも、「理性」によって折角発見した「真理」が、「自由意志」によってあっさり「放棄」、「否定」されてしまうことになれば、何のために「理性」を用いて「真理」を探そうとするのか、その意味が損なわれてしまう虞があるからである。そのため、認識論と存在論を結合させて論じるヘーゲルやハイデガーの哲学においては、半ば必然的に、自由意志は「真理」発見のための「道具」、「理性の狡知」と見なされることになった。即ち、究極的には、「理性」によって発見された「真理」こそが「意志」の内容となる、「理性」的な「真理」と「自由意志」の内容とは最後には必ずや一致するものと想定されていたのである。

例えばハイデガーは、情態性として存在している人間が、死への先駆的覚悟を行うことによって、存在(生)の「意味」が明らかになるという。一方人間にとって、世界内の他のものは「目的」によって規定された「道具連関」として立ち顕れているとされている。そうであるならば、開明された存在(生)の「意味」は、この「道具連関」を主導する究極的な「目的」であり、それに伴って相応しい「道具連関」も同様に規定されてくる筈である。
日常的な表現で言えば、「(人生の)目的」さえ明らかにすれば、「そのために何が必要か(道具連関)」は自然と明らかになる、定まるといったような感じである。
ハイデガーは最初から「関心(ゾルゲ)」によって規定されたものとして人間を見出すので、この場合「自由意志」は正面から問題を引き起こすことはない。「関心」は、最初から導かれたものとしてある。ハイデガーにとって重要なのは、この導きをより「明らかな」ものとしていく(認識していく)ことだけである。

ハイデガーの議論は最初から半ば「自由意志」論を無効化している。つまり、「関心」によって規定されている限りで、既に自由意志とは言い難い。また、「存在の意味を開明しようとするかどうか」といった部分で意思的要素が入りうるにしても、これはその「認識」活動のスイッチを入れるというだけの話で、何らかの現実具体的な実践的行為を行ったりする訳ではない。ハイデガーの言う「関心」は最初から「生への配慮」であり、恐らくは「存在の意味」(生の意味)の認識こそが、この「関心」の具体的なあり方を規定している。「存在の意味」(生の意味)の認識に伴って「関心」の個別のあり方は変わってくるかも知れないが、あくまでそれは意思決定ではなく、「認識」の結果なのである。
(勿論、これを「意思」でなく「認識」とするハイデガーの描写が妥当であるかは、究極的にはこれをを受け取る個々人の現実感覚にかかっている。)

レヴィナスも出発点としてはほぼこれと同じような立場を取る。というより、「存在」(生)のあり方の描写として、基本的にハイデガーを前提とする。(例えば、以下の叙述を参照。「時間は存在することであり、存在するという顕出である。時間の時間化(は)・・・時間の流れ、すなわち自己同一的なものにおける差異に他ならない。・・・けれども、時間はまたあらゆる偏差を回収するものでもある。・・・そこでは、全てが現前し再現前する。時間の時間化においては、全てが書き留められ、エクリチュールに委ねられる。ハイデガーならこういうであろうが、全てが総合され集約されるのだ」(p37))

さて、このように、ハイデガーやレヴィナスの立場は、第一原因としての自由意志を認めない(というより、「関心」とか「責任」とか、それと別の表現をする)。ではこれで問題は全て解決したのだろうか。そうではない。
自由「意思」を解体された私は、意思ではなく「認識」の主体として立ち顕れている(上のハイデガーのような解決においては、「自由意志」論の語るのと同じ事態を、むしろ「認識」によって引き起こされるものとして説明するわけだ)。近代哲学は、認識論として、第一原因としての主体よりも認識主体の方から議論を構成したのであった。では、この「認識」主体としての私は、一体「誰」なのか。

これは全ての近代哲学の根本命題である、デカルトに送り返される問いである。コギト・エルゴ・スム。我思う故に我あり。
これはどういうことか。簡単に言えば、「思われ」、即ち意識である限りに於いて、私の存在は確証されるということである。デカルトの言う私は「思考する意識」なのであるが、コギト・エルゴ・スムという論証に当たって終局的な根拠をなしているのは、「思考」の方ではなくて「意識」の方である。思考することには一種自発性が含まれているが、意識は最初から受動的な形で与えられている。思考を止めることは出来ても、思考を止めていることについての「意識」を止めることはできないのだ。

これによって、「認識」主体としての私は、「意識」しているこの「私」であることが確認された。

では、意識の受動性は、一体何を意味するのか。デカルトはこの受動性から、この意識を与える者であるところの「神」の存在を導き出したのだった。では、「神」を想定しないにしても、この「意識」の受動性が、「私」の存在という以上のことの含意を持っている可能性はないだろうか。

レヴィナスはこれをあるという。そしてそれを「他者」と見なす。
レヴィナスはこれを、フランスの文法用語を使って、seであるとか、受動態であるとか、対格であるとか言う。なお、seは、フランス語において、受動態的な意味合いを含む再帰代名詞であるらしい。
(「「存在とは他なるもの」は、存在することの属領たることを拒む自己自身としての主体性なのである。・・・自我という唯一性における自己の外、自己との差異は、無関心-ならざることであり、<se>(自己自身、彼自身)という再帰代名詞の尋常ならざる再帰なのだ」(p34))
日本語にはこれに丁度対応するような語はない。しかし、「〜と思われる」とか、「〜に見える」とか、「自ずと〜される」という意味の各種の言葉に、このseの意味が含まれていると考えられる。思ったり見たりしているのは「私」なのだが、その意志は必ずしも私に由来するものではない。これは、意識の受動性が、単に外から与えられているというだけではなくて、自発的にそうするような形で外から与えられているという矛盾的なあり方をしていることにも関係している。
もう少し言い換えると、意識が最初から受動的な形で与えられているという際のこの「受動的」とは、第一に、「私は〜された」という意味での受動態である。だが、これだけに限定されるわけではない。意識の受動性には、同時に、「自ずと〜される」という意味での受動態が含まれている。私は、意識を勝手に「外から与えられ」ると同時に、自分から、「自ずと」そうも感じる。受動態は、意識が、私のイニシアティブでもあり他者のイニシアティブでもあるという、両義性を上手く指し示している。
レヴィナスは、この受動態の両義性を、私と「他者」との結びつきの証左と見る。或いは、私は自分の内に「他者」を孕んでいる、とそう捉える。(終局的には、これは「強迫」としての他者(意識にとっての壁という意味での他者)、或いは「感受性」(身体)としての私なのであるが。責任はこの両者の接合によって成り立つ。)

結局、私は他者であるか、もしくは私の中に他者が居る(詳しくは第二章以降の「論述」において論じられる)。

なお、「私」が「他者」だとか、私の中に他者が居るというのは、何か意味不明な文学的レトリックのようにも感じられるが、それは日常的な思考が「自由意志」論が前提とするような原子論的個人の想定に深く馴染んでしまっているからである。自由意志論は、意思の主体客体という形で、私と他者が完全に切り離されて考えられていることを論理上必要とする。
レヴィナス的な「他者」の観念において言われていることは、違和感のないように上手く表現するのは難しいのだが、要するに、私の意識の中には、常に外部環境(他者)への意識が含まれているということである(意識は常に何ものかについての意識である)。何かを「見ない」とか「聞かない」とか「臭いを嗅がない」とかいったことは、基本的に私には不可能であり(目を閉じてもまぶたの裏は「見える」し、耳を塞いでも空気の圧迫のようなものは「聞こえる」)、その限りで、意識である私は常に外部環境(他者)に結び付けられている。これは「自由意志」論的な切り離された私-他者の観念よりもより「基底的」なものである。というのは、このような繋がりが潜在しているからこそ、後から「区別」を立てて、私と他者を切り離して考えることが出来るからである。最初から完全に私から切り離されているとすれば、そのものは最初から私によって知られることはない。

さて、こうして論理上私が他人であるかもしれないような基底的な場所まで来た。では、このseの発見によって得られる理論上の帰結は何なのか。

そもそもの問題は、レヴィナスが、一体どのようにして、「自由意志」を「責任」に置き換えることが出来るのか、ということであった。


「自由意志」の「責任」への置き換えは、基本的には、問題設定そのものの変更である。
「自由意志」は、人間を時間的・空間に動かす「動力」が何かという問いに対する回答として与えられるものである。だが、「動力」が「意思」だというのは、如何にも形而上学的である。例えば人間の体を動かしているのは、各種の生理的反応、物理的エネルギーであって、「意思」などという形而上学的実体ではない。これは例えば、ニーチェなどがはっきりと指摘しているところのものである。
ニーチェの批判を通して、「第一原因」という形而上学的問題設定は、それ自身が半ば効力を失ってしまったのであった。デカルト的心身二元論を徹底させれば、当然に、身体はあくまで物体(「延長」)として、生理的・物理的エネルギーによって動かされるものに留まるものである。「心」は、身体の運動の方向性を向け変える、何らかの未知の「ブラックボックス」に過ぎない。

しかしこのブラックボックスは「自己認識」をされている。その限りで、哲学は「心」を放棄する必要はない。
ではこの「自己認識」とはどのようなものなのか。
フッサールはそれを「超越論的主観」と考えた。身体とは離れて、半ば抽象的にこの「自己認識」だけを取り扱うのである。(これは数学等の思弁的諸学門の基礎付けとして、十分に機能しうるものであった。)
だがそれでは物足りなくも感じられる。身体と心を、統合的に説明できる理論があればそれに越したことはない。
ハイデガーはここで、「自己認識」を、存在(生)の意味の問題と捉える。これは何かというと、「自己認識」を、自己の生存への配慮と捉えるわけである。これは、「ブラックボックス」の機能を上手く把握している。身体が己を保存するために、「自己認識」という「ブラックボックス」を活用しているわけである。「自己認識」がその仕事を進めることにより、身体はより良く生存することができることになる。こうした形で、デカルト的に分離された心身二元論は、再度一元的に統合されることになる。

ハイデガーを終局として、身体と心は、「自己認識」の形で統合されることとなった。
なお、これに伴って「存在」概念も変更を受ける。「身体」と統合された「自己認識」は、その認識の「対象」として、3種類の「対象」を持ちうる。
まず、「延長」としての「身体」のレベルで問題になるのは、「存在者」(その「身体」が「客観的」に見てどのような「性質」を持ったものであるか。即ち、「〜である」という「定義」)の問題であった。「自己認識」はこの「身体」やその他諸々の「存在者」(の「定義」)を認識する。
他方、「自己認識」は、「存在者」の「存在」(その「存在者」が、抽象的な「定義」でなく、現実具体的な個物として「ある」かどうか)の認識でもある。
更に、「自己認識」は、「自己認識」自身の認識でもある。この場合実は、この「自己認識」は「時間」として顕れる。

だが、このように定式化された場合、実は一つ難問が生じるのである。即ち「自己認識」は、究極的には、第三番目に明らかにされているように「時間」なのだった(「時間は存在することであり、存在することという顕出である」(p36))。自己認識が「時間」であるのなら、なぜ「時間」は流れるのか。なぜ「自己認識」は自ら動くことができるのか。

レヴィナスはこの点に着目する。「自己認識」の「自己認識」という形で純化された「自己認識」は、自ら動くことができない筈である。それにもかかわらず、実際に時間は流れ、自己認識は何ものかを認識する。
「自己認識」が自ら動くことが出来ないのであれば、その「動き」や「時間」は、「他者」から来るしかない。
しかし、「自己認識」は「自己認識」である限りで、「他者」の認識を欠いている。つまり、「自己認識」は、他者に由来するものでありながら、その「他者」の認識を欠落させている。レヴィナスはこの「欠落」を、時間の観点から「隔時性」と呼ぶ(「しかるに、このような時間化のうちで、回帰することなき時間という経過が、どんな共時化にも逆らう隔時性が、超越的隔時性が告知されなければならない」(p37))。
「隔時性」において、「他者」は「自己」と認識される。「自己認識」は自己の生存への配慮である以前に、「他者」の引き受け、即ち「責任」なのだった(「ただ、現前の秩序に属さないがゆえに、一切の現在、一切の再現可能なものに先立つような過去との関係は、他人たちの過ちないし不幸に対する私の責任という異常で、かつ日常的な出来事のうちに内包されている。他者の自由に対して責任を負うた私の責任のうちに、人間同士の驚くべき兄弟関係のうちに内包されている」(p39))。

レヴィナスは、ハイデガーを出発点として、自己認識自身であるところの「時間」についての検討を通して「隔時性」概念を見出し、これを梃子に、「自己認識」を、「自己の生存への配慮」から「他者の引き受け」(「責任」)へと作り変えるのである。いわば、「ブラックボックス」である心を、「自己の生存への配慮」という能動的な機能から、「他者の引き受け」という受動的な「機能」に、読み替える。

この「能動」から「受動」への、「ブラックボックス」の読み替えが、実際上どれだけの相違をもたらすものなのかは必ずしも明らかでない。もしかすると、ニュアンスの相違に過ぎない可能性も十分に考えられる。しかし少なくとも、レヴィナス自身はこれを、生存の利害からの超脱の道を見つけるためには、不可避の議論であると捉えたのだった。


散文(批評随筆小説等) 自由意志と責任−「存在の彼方へ」を読んでみる7 Copyright もぐもぐ 2004-08-02 21:42:08
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