爆裂(上、後)
鈴木

 ――嘘じゃねえよ!
 五年生・藤堂勝也は
 ――見つけたんだ!
 市立虹丘小学校第三十六登校班長であり「社ヶ丘パークマンション」敷地内の餓鬼大将も兼ねていた。
 ――秘密基地を。
 梅雨明けの朝は日差しが一段と白く風も涼やかに肌を巻いて空き地の草を薙いでいく。その経路を目で追っていた祥平は隣から肩を強く揉まれて痛い思いをする。八人の二列縦隊で勝也と歩く最前列である。
 ――聞いているのかな、一年坊主。
 ――ごめんなさい。
 力を行使する喜びの笑顔は当時の祥平が最も嫌うものの一つだった。接触を避けようとすればするほど勝也は絡んできた。エロティック写真集『しっぽり大前線』へいっかな興味を示さなかったことがあったが、その時に交わしたやりとりで一目置かれてしまったようだ。拳骨し続けながら反応しない理由を勝也は問い、肝心な箇所が塗り潰されては意味のない旨を祥平は答え、夕焼け空の下に、なるほどそうか、が鳴って暴力は止む。
 ――それでな一年坊主、この探検ツアーに来い。日曜日のお昼過ぎ、一時半な。おれの飯が終わるのがそれくらいだから。広場に。バカシとゴンベエとガリベンも呼ぶ。
 班の男子を全員に声をかけるのでは是非もない。断れば単独登校を強いられて叱られるのは己である。蹴り飛ばした小石が溝に落ちる。
 ――わかった?
 ――うん。
 ――よろしい。
 勝也はそっと開けた祥平のランドセルから教科書を奪って逃げる。他人に聞かれたくない話をするときの常だった。追いかける。歩道橋を上りきったところで車道へ向いてしゃがんでいた勝也に返却を求めると手招きされたので顔を並べる。セダンやワゴン、トラックに軽自動車やバイクが排気音を残して過ぎ去っていく。遠く前方でクラクションが響いた。汗が流れる。ささやかれる。
 ――ルールがある。
 怪訝な顔をしてみせる。
 ――友だちを連れて来い! 大人じゃ駄目だぜ。同学年じゃないといけない。
 見え透いていた。隠れ家の発見を種に自らの威勢を拡大しようと意図も然り、なにより
 ――お前は仲のいい人すげえ少なそうだけど探せばいるだろ? がんばれよ。
 振り向いた勝也の視線は階段を上がる班員たちへ向けられていたが、
 ――遅刻しちゃうぜ。
 祥平には彼がそのうちの一人しか見ていないという確信があった。白い皮膚に汗が玉と光る彼女はおさげ髪の副班長にくっついて始終目を伏せたまま歩く。学校で見る誰よりも美しかった。茜だ。華奢な肩に乗った妖精が長い爪で威嚇してきた。行くぞ、と小突いてくる班長のにやけ顔が、より恨めしくなる。自分では誘えないくせ露骨に命ずるのも嫌だから回りくどい策を弄するのだ。一石二鳥のつもりか。祥平は絶対に茜を連れて行くまいと決意した。この顛末を同日の午後四時半に「社ヶ丘パークマンション」C棟・四○一号の居間にてサイダー飲みながら聞き終えると来須涼斗は
 ――もう一杯ください。
 と言った。
 ――もう四杯目だよ?
 ――祥ちゃん五杯目じゃん。
 本を読んでばかりの祥平にはじめて声をかけたこのクラスメイトが今や唯一の頼りだった。女のような顔をしていた。幻を話す相手にもなってくれた。しかつめらしい顔で相槌すれども内容は錯覚の一言で片付けてしまい、一度、雪の日に「ん」を見たことを泣きそうになりながら語ったというのにまたしても錯覚であると断ぜられたときは怒髪天を突き飛び掛ったものだが、またなに食わぬ顔で話をせびって興味深そうに聞くものだから憎むことができない。サイダーを注ぐ間沈黙が続いたので今回は妄想でないのにかの四文字が放たれはしまいか不安になる。一リットル半のペットボトルが空になった。涼斗が口を開く。
 ――それで一緒に行けって?
 祥平はげっぷを鳴らした。
 ――嘘だろう?
 ――嫌なの?
 ――決まってんじゃん。祥ちゃんこそなんで結城さんじゃ駄目なの?
 ――なにされるかわかんないから。
 ――本当? おっかない?
 ――鳩に爆竹を巻いて破裂させるのが好きらしい。
 ――そんな奴には会いたくないよ!
 二人は奇声を上げて和室へ飛び、走り回り、畳が足裏を跳ね三半規管が揺れアンバランスに居間へ戻りサイダーがぶ飲みし咳き込む。
 ――ぐわんぐわんぐわん!
 ――っていうか、勝也はなんで祥ちゃんなら結城さんを誘えると思ってんの?
 ――ぐわん、仲よしだからかな、ぐわん。
 ――仲よしなの?
 ――ぐわん、学校に入ってから一回も喋ってない、ぐわん。
 茜とのことは誰にも話していなかった。
 ――入る前は仲よしだった?
 真剣な顔つきでいる。
 ――けんかしちゃって。
 プラスチック製の青いコップの中で膨れては消えていく泡の表面に目を凝らせば沈黙へ声を発した「ぬ」の末路、内臓をぶちまけられた様が映し出され、喉に並んだ穴からかすかに笛じみた響きの漏れるのを数頭の狼が塞いだり離したりすれば高低の音色を奏でるので余計に笛じみてしまって腿は虎がむしゃぶり腕は鰐のがっつき目玉は禿鷲のもので耳を鼠が齧っている。このままでは狸になってしまう、と茶化したのは犬か猫か最近は豚を飼う家もあるとかでスカイフィッシュかもしれないが、誰にせよドラちゃんの流布している辺り現代文明も存在するらしい、視たり読んだりは許せるけれども作るのは人の手でなければならないだろう!
 ――仲直りしなよ。
 引き戻される。
 ――せっかく仲よしだったんだから。
 ――でも肩に妖精が乗っていて、近づくと引っかいてくるから。
 ――錯覚だよ。
 ――違うよ。
 ――違わないよ。何回も言ってるじゃん。自分の心だって、全部。だいたいさ、こっちの世界とそっちの世界が繋がっているんならハイパースーパーで勝也を倒せばいいじゃんか。
 ――ちがうよハイパーライト戦隊の格闘術『スーパーウルトラ』だよ。
 ――なんでもいいよ。
 ――向こうの力はここでは意味ないし。
 女子みたいな涼斗の顔に影が差した。
 ――だったら妖精に引っかかれたって大丈夫じゃん。本物だとしたって小さいんだろ、捻り潰してやれよ。それくらいできないくせに陰では結城さんを守っているつもりなんて変だよ。おせっかいだ。ストーカーだ。そんな人の言いなりになるなんてぼくは絶対に嫌だ。
 犯罪者よばわりされて怒り心頭だからといって飛び掛れば今度こそ一人ぼっちになってしまう。コップの中身を再び見つめた。どうせ蛾か、次は蝶か? 認めたくなかった、と思う。映じられたのは茜、寝息を立てる彼女の唇の軽く開き鼻も少し膨らんでいる、目を隠す髪を払ったが白いばかりどんな風に笑うのか泣くのか怒るのか空欄を残したまま泡は弾けてもうどこにもない! 眼前で睨むのは茜ではない。祥平は言う。
 ――ぐわん。
 ――は?
 ――仲直りするよ、ぐわん。
 三度げっぷして笑った涼斗を約束の日時にマンション広場のベンチ上より見る勝也は梅干を食いすぎたような顔をしていたがガリベンこと三年生・苅田洋介の連れが不在だと知るや元気になった。自転車の錆びたブレーキのごとき声音で洋介は痛覚の健全たるを示しながら学業による忙殺を訴えたが止まない叱責に、しまいには管理人の孫であることを材料に許しを乞うた。このような言い訳を彼はよくやる。だからなんだ、と殴られるのが毎度の結末だった。どうして勉強しないのだろう? 今回は初対面の人間へ餓鬼大将の権勢を誇る厳しい一打になることが予想された。外れた。上げた拳を振り下ろさぬまま勝也は四人から七人に増した舎弟へ出立を宣言した。西に入道雲のそびえる晴れた日だった。概して学校へとは逆の方向へ進んだ。行き先を発表しないリーダー先頭に友達同士が並んで続く二列縦隊は統率の感を醸し、灼熱を堪えて遂行すべき重大な任務があるらしい感を醸し、期待はずれに終わる予感をも醸した。勝也と背を並べるのは洋介だ。一人で来てまで腰巾着を買って出るとは、ここ以外に身の寄せどころがなかったのではないか。また連れの不在も単純に友人がいないというのが真相ではあるまいか。ぶ厚い唇をつきだして笑う横顔は管理人の温和なかんばせと似ても似つかない。建築物の間から遠く町境の森がちらつく。
 ――仲直りした?
 涼斗は夏日に炊かれた米のようだ。茜も白い。比較すると祥平は黒い。前を行く奴らはもっと黒い。
 ――まだ。
 約束を交わした翌日より度々茜の教室を覗いてみるも他の女子に囲まれていて、登校時は勝也がいるし下校時を狙うのはストーカーみたいだ、結果つけ回しているのが皮肉に思え、それでも廊下ですれ違いざまに声をかけてみると素通りされた、妖精は四肢を振り乱し鬼気迫る形相で喚いたが内容はわからず、仲直りの秘訣はピクシー語の理解に隠されていて、こちらの価値観を一方的に提示するのではなく対話を通じて違いを違いと認め尊重することで心が通じ合い協力を取り付けられる。そんなことを話した。
 ――時間かかりそうだね。
 ――がんばる。
 たとえ錯覚でも自分にとっては存在するのだからどうしようもないというのが、考えた末の結論だった。祥平は確信していた。妖精を懐柔しなければ無視され続ける。歩く。通りを渡るたびに建物が低くなる。涼斗がたまに見る腕時計はデジタル製でショックに強い流行りの代物だった。
 ――瀬名緑地だな。
 新築の一軒家が並ぶ道に入ると小山を正面に迎える。隣町との境界を縁取る形に広がるそこは公園や遊歩道が設置されてはいるものの大部分が木々の鬱蒼と生い茂る立ち入り禁止区域であり、確かに秘密基地の一つや二つありそうな場所ではあった。引率者が大声でがなった。
 ――捕まったよ! どこまでバカシなんだお前は。
 この頃は変質者が出没すると専らの評判であった。祥平は朝礼で知った。女性の前に躍り出て裸体を晒すのが趣味なのだそうで、それならば自分と似たようなものだ、と思ったのだけれども、知らない人に見せたがる点はさすが変態なのであった。涼斗がささやいてくる。
 ――あの痴漢の隠れ家に行くのかな。
 逮捕は十日前のことで、隣町の中学校にて隠しカメラを設置するさなかの現行犯で引っ張られたようだが、校長の話からそれなりの間があった。警察の目を避けるためのアジトが存在したとしても不思議はない。
 ――そうかもね。
 いかにも勝也が食いつきそうなネタだった。緑地の外縁に着くと首領は身の丈の幾倍もある金網を軽々と乗り越えた。各々続く。不可能だと涙ぐんでまで力説した洋介も叱咤と補助でようよう昇降できた。根に捕まりながら急な斜面を登り、振り返っても入った隙が定かならなくなるほど杉の乱立する地を奥へ進んだ場所で
 ――止まれ。
 止まった。
 ――入会記念の特別サービス、新入りだけ来い。
 四人が行き、四人が残った。バカシこと二年生・韮澤貴史は不平を漏らした。鳩爆破事件を語ったのは彼であった。勝也と二人でやったことを扁平型の鼻を膨らませながら執拗に強調した。幹に手を当てるゴンベエは平田権兵といい、四年生で、肩幅が広く、豆粒みたいな目と大きな口は形をほとんど変えない。寡黙で話を交わすのは稀だったが、それゆえか内容は印象に残っていて、去年の夏に引っ越して来たとか幼稚園に通う妹がいるとか思い返しているうちに洋介が近づいてきた。くねくねしている。
 ――祥ちゃんの友達ってなんて名前?
 吹けば飛びそうだが祥平より二回り大きい。教えてやると幾度も唱えて、
 ――可愛いよね。
 紐のように垂れた目じりをさらに下げた。いくらか靴の埋まる土に汗が落ちて染み消え、また別の場所に円はかたどられる。最初の円と次の円は微妙な相違を意識したが数を重ねるにつれあやふやになり、初めからなにか均一の形が構成され続けていると感じるようになる。勝也が現れ、手招きして木陰に消えた。行ってみると坂があって登ればマンション広場ほどの草原に出くわした。葉の擦れる音がする。丸く広がる空は半分ほど雲に覆われていた。先遣隊の固まっていた域には人工物が散乱しており、菓子やカップ麺に空き缶やペットボトル、砂時計、漫画、ボールペン、マグカップなど雑貨が多い。少し離れた場所の甲高い叫びに歩み寄ればウルフカットの少年が屈んでおり、勝也は他者を制し覗き込み
 ――なんだこれ!
 全員に聞こえるよう大きな声で、
 ――やっぱり変態の家だったんだ!
 指差す。皆見る。そこにあったのは『しっぽり大前線』であった。勤労から解放された大人の溌剌と戯れる姿態を新顔たちが取り囲んで浮いた古株に班長は言う。
 ――大発見だ、な!
 ――勝也くん最高!
 瞬時に激賞したのは洋介で、飛び跳ね走り回り手を叩き続けた。権兵も拍手した。貴史は
 ――でも。
 述べきることができずに腹を蹴られてうずくまった。
 ――でもじゃねえよ、バカシ。ここは痴漢の隠れ家だ。なあ一年坊主。
風の起こすざわめきが大きくなって背筋を、つう、と冷たいものが降りる。茜の手を引いて柵をまたぎ木々を抜けて草原を駆ける。ごみの散らばる一角で貴史を殴っていた勝也が例の笑いで近づいてくる。彼女を渡す。奥へ消える。右方で裸の涼斗が四肢を縛られ転がっている。洋介に含まれている。立ちふさがる権兵が掌を打ち鳴らす。そして誰のものとも知れぬ絶叫が飛び交う中で行き場を失った祥平はへらへら局部をいじりまくる。嫌だ、と思った。そんなことになるくらいなら蹴りでも食らった方がマシだ。バーカ。罵詈が意識へ上る。バーカバーカ、だったら試しに住んでみろよ、砂時計より先に揃えるもの幾らでもあるじゃん、他に家があってたまに逃げ込むだけとしても、だったらこんな場所で漫画なんか読むわけないだろ、変態なんだよ、子供じゃないんだよ、見つかったら終わりなんだよ、だいたい『しっぽり大前線』とか、わざとぼくらにバラしてその上で忠誠心を試したいのが見え見えなんですけど、ってか痴漢とか言っちゃってお前の本じゃん、お前が痴漢じゃん、痴漢々々、捕まってなんかくさいところに行けばいいよバーカバーカバーカ!
 ――聞いてんのか、おい。おい!
 胸倉を掴まれる。かかと浮く。
 ――殺すぞ!
 ――あ、すごい! 勝也くん! すごいよ!
 突っぱねられて倒れた。
 ――おい、カマキリ探そうぜ!
 昆虫採集のうちカマキリが好まれた理由は勝也によれば肉食であることが大きかった。具されたバッタやコオロギなどが崩れていく様に興奮でき、また、数に余分が生じた場合やシーズン末に限るが共食いは激烈な官能をもたらすらしい。皆、大将に従って、去った。涼斗だけが心配そうな顔で幾度か振り返った。残された祥平は歓声が遠ざかっていくと共に肘の痛みに気づく。擦って白くなった箇所から血がぷつぷつと沸く。彼は安堵した。ほどなくして吐いた。それは取り入れたものを一括して放り出す痛快な嘔吐ではなく、己の骨や肉や内臓から脳に皮膚まで丸ごと内部で攪拌して出来た溶岩の間歇的な噴出であり、数十秒の後に枯渇すると発射口たる唇のぱくぱく開閉するばかりとなってカマキリの
 ――拒否する!
 という物言いが響き渡るものの視界の隅に旋回する彼奴を直視してはならない、なぜなら細切れの父が一掴み幾らで売られる舞台上で肉食動物に囲まれて百獣の王と睨み合っていたからだ、目をそらしたら死ぬ。光の力を備えた右拳を繰り出せば獅子を吹き飛ばすのは造作もないが、羆を裁くこと叶わないまま父と同じ道を辿る破目になってしまう、というか父を救えなかったのになぜ暴力の行使を前提に思考しているのか、ここは己の生存を目的として行動するべきではないのか。先ほどやったように?
 ――わたしが断固として拒否するのは飼育による滑落、たらふく食わせてもらえるのだから滑走あるいは「滑昇」と呼ぶべきか、そういった類の、立つ場の摩擦が急に無へ帰したような居心地の悪さで、わたしの微小な逆三角形の頭は観念など発し得ず差し出された供物を食らうだろうがそれは自然状態と言えるのか、いや自然状態とは神経回路の作り出した虚構過ぎないのだから、わたしがもう一つ重ねて拒否すべきはここで語られる言葉と語るわたし自身であるからして、さかしまの『クロエの誘拐』にてダフニスがしたような跳躍、否「跳落」! を! 要するのだ! ああ百舌よ百舌お前の口ばしでわたしの腹を裂くがいい! わたしは必死に腕を振り抗い、拒否する、の刹那に剥落した、というかあらかじめ剥落していたことになってしまったものを取り戻すだろう! いや取り戻せないだろう! 取りに戻れない! しかしわたしはやる! 拒否する! おおお百舌よ百舌お前の爪で我が腹から卵を抉り出して望むままに食らえ! でもあいつらきっと、おいしい、って、さえずるんだ! 畜生!
 祥平は
 ――やかましい!
 と言った。相変わらず殺害の機を窺っていた動物らの他、メンチの切り合いに飽きそこかしこにて交接食事睡眠排泄商売を催していた野獣たちも再び彼の周りに集い吼えまくった。楓が幻に浮かんだ。あれは立っていて、いつか伐られたとしてもなにも言わないだろう。強いてなにも言わないのではなく、別に、くらいは言うかもしれないが、どちらにせよ頓着しないのだ。楓を突き破って、雄獅子が、口を大きく開け、舌を奥に引っ込め、爪を出した前足はこちらの肩に照準を合わせ、襲ってきた。スローだった。野次も低く、遅くなっていた。祥平は俯いて、構えを解いた。瞬間に視界が黒く塞がれて激しい痛みと苦しみに加え胴体の振り回される感覚を最後に意識が途絶えた。死んだ、と思った。だから彼は生きていた。どこまでもなだらかに続くかと思われる荒地をうつぶせに低空飛行していた。遠く両斜め後方に禿山、どちらの頂きにも街があった。
 ――起きたか。
 砂色に澄んでいた眼下に身体とタテガミが現れて、そういえば顔中くさい。背に祥平を乗せて雄獅子は歩く。
 ――食べなかったの?
 ――食べなかったよ。
 雲はなく白い空に太陽もないが適温で湿度も上々、まばらに生えた草木は倒れるか切り取られるかしており、たまに水が沸いていた。
 ――どうして?
 ――人間、けっこう迷い込んでくるよ。普通ならぶっ殺してやるんだが、気が変わった。里に送るよ。
 ――里?
 速度が落ちた。
 ――森から来たんじゃないのか?
 ――街じゃなくて?
 ――あっち出身なのか?
 ――わかんない。
 雄獅子は末尾を上げて唸ると黙り、池を見つけ、駆け、ほとりにて降りるよう促し、身軽になると飛び込んだ。平泳ぎまでした。
 ――話せ。
 話した。六年間の実人生を思うさま喋った。茜との仲違いや勝也への服従には言葉が詰まったけれども、幻の側へ来るきっかけを隠し立てることはできなかった。飲み泳ぎ身体を洗っていた聞き手が
 ――嘘だろう?
 と言う。嘘だろうが錯覚だろうが知ったことかという旨を捨て鉢に放れば
 ――お前の頭がおかしいのはわかった。
 あきれられた。池は直径を広げ小学校のプールほどの大きさになるとたちまち雄獅子を残して消える。
 ――確認するが、ここでの記憶はないんだな?
 ――ぜんぜん。
 ――聞け。
 聞いた。生物の集まる場所は三つある。まず二つの禿山、自分たちから見て右が今しがた出た動物の国、左が人間の国であり、両者は長らく対立している。発端は草食動物が、獣に食い荒らされるよりも家畜として数を統制された方がよいという理由で、軒並み人間の国へ移動したことだった。
 ――見てのとおり草が少ないから食っていくのも一苦労だったが、植物を育てる技術を発明した人間が自分らの領土に誘ったんだ。
 口に合わない草食動物も受け入れる、という条件を人間側は呑んだ。飢餓に陥った獣が糧を得るためには人間の国へ侵入せねばならなくなった。容赦なく殺された。のみならず捕虜は見世物になって骨抜きだ。闘争が起こった。
 ――だから『動物大騒擾』は報復だよ。奴らも同じことをやっている。お前を食えなかったせいで血がたぎっているから、同胞たち今もまた攻め込んでいるだろうな。テツなんか猛者だから特攻隊長でも買って出ているんじゃないか。
 思わず口を挟む。
 ――じゃあ、ぼくを殺さないといけなかったんじゃないの?
 雄獅子は三メートルほど離れた日なたに祥平へ右脇を向けて座った。すぐに襲い掛かれそうな位置ではない。
 ――そうだな。
タテガミを後ろに撫で付け遠い目をしている。
 ――王だし。
 ――マジで? やばくない?
 ――やばいよ。裏切りだ。ただじゃ済まないだろう。
 風が吹けばいいと思った。池の対岸だった場所に、半ば白骨化した幼児の骸があった。あれは貴史ではないだろうか。また馬鹿を言って勝也に蹴られたのだろう。死ぬまで。
 ――お前はあそこの人間とは違う。里の住人だよ。目を見ればわかる。
 生物が集まる第三の場所は地の果てにあり、探検者の情報が食い違うため詳細はわからないが便宜的に『里』と呼ばれている。
 ――やられたの、本当に親父だったのか?
 うなずく。数瞬の不注意で貴史はいなくなった。
 ――乗れ。
 見渡す限り肌色の大地で彼は雄獅子の背にいた。倒木や死体が視界の後ろへ少しずつ逸れていく様だけが前進を示した。
 ――ピクシー語、教えてやるよ。
 ――ありがとう。
 ――まっすぐ行くと大空洞が、さらに進めば樹海が広がり、またその先に里があるって話だ。さっきみたいに運よく水にありつけ続ければいつか着く。
 ――飲んでおけばよかったかな。
 ――大丈夫、お前は特別な力を持っている。おれの名はササラ。お前は?
 ――ぼくは。
 忘れてしまった。うつむく。金色の毛が一歩ごとに波打ちながら鈍く光って
 ――祥ちゃん! 祥ちゃん!
 目を上げれば涼斗に左頬をはたかれていた。大粒の雨が激甚たる勢いで注ぎ草原は破砕したような音を立てていた。
 ――皆は帰っちゃったよ。
 彼の髪が海草みたいになっていたので祥平は
 ――わかめ! わかめ!
 と叫んだ。双方がびしょ濡れであった。次第に感覚を取り戻し左顔面が痛い祥平が、お返しのつもりで相手の肩を軽く押すと、突風が吹き涼斗を転ばせた。すると起き上がる中途の低い体勢から放つタックルで組み敷かれた。
 ――なにがわかめだ!
 殴られた。仰向けになると水玉が目に入って拳の軌道が読めなかった。冷たい草々の上を転がっているうち息が上がり互いは互いを解放した。そこは勝也が私物をばらまいた区域であった。ふと拾い上げた写真には同年代の女子の水着姿が収められていた。
 ――泣いているの?
 ――泣いてないよ!
 ――震えているよ?
 ――寒いだけだよ!
 ――あ、そう。
 ――涼ちゃん。
 ――なに?
 ――ぼくって勝也より強いかな。
 涼斗は走り出す。
 ――祥ちゃんの家まで競争だ!
 防水性をも併せ持つ高性能デジタル腕時計によると十五分後にマンション広場へ到着した二人は、雨と草と土と傷と汗と疲労となにかでどろどろになってベンチに腰を下ろしていた。やがて友がひきつけのような声のない笑いを漏らした。
 ――いざとなったら、二人で死のう。
 祥平は
 ――ありがとう。
 と言って、それからは忍耐と鍛錬の日々、朝は欠かさず班の全員へ挨拶し、茜に無視されてもへこたれず、勝也へは心酔を装い、教室では勉学に励むと共に涼斗への情報提供を怠らず、下校時は家まで走破して足腰を鍛え、格闘技を習うことは親から許されなかったが、代わりに買ってもらった空手入門誌記載のトレーニングを欠かさなかった。まず正しい姿勢を身に付けるところから始め、中段正拳突き、これを上段へ下段へ、半身の構えを習うと順突きや逆突き、さらに蹴り、受けや払いも学び、これらを毎日々々反復するほどに一定のリズムで脈打つ襞の中に浮いており、透明の粒子が渦を巻き視界を揺るがせると共に皮膚を貫く。そこで彼は自らの鼓動を襞に合わせようとするもうまくいかず嘆息するけれども出入りする微小の粒は体内外に同じ密度で存在していた。滑り気に絡まれて四肢を振るうのも煩瑣でよく見るとごく薄い膜に包まれており程なく壁ゆろゆろと不規則な速度で凹凸に歪むうち光が差し込んで彼は誕生した。眩しさに慣れた目に飛び込んできたのは自己を透過していた親しげな粒子のごとき無数の瞳であり、それらのはびこる眼球を潤ませて笑いむせぶ女の赤い両頬のへこみが捻転して割れ飛び目が覚めてササラの背の上
 ――大丈夫?
 とピクシー語でのたまう。
 ――ちょっとつらい。
 時間はいくらでもあり、その故に起こる焦燥を紛らわそうと双方が真剣に取り組んだせいもあって語学の首尾はよく、日常会話程度ならこなせるようになっていた。ただ歩けども歩けども周囲の光景に変化が見られず、たまに湧き上がる池によって獅子は命を繋いでいるものの力の減退を否めない。タテガミも減ってきている。
 ――ごめんね。
 ――しかたないよ。
 何度も繰り返されたやりとりだった。飢餓しない祥平一人で里へ向かうのを提案したこともあったが、にべなく断られた。ササラの、自分が連れて行かないと祥平は必ず街へ戻る、という主張は当を得ていて、なんとなれば親の仇を討ちたい気持ちもあったが、立場や命を投げ打って教師になってくれる好意を裏切るわけにはいかなかった。
 ――おれ暴力嫌いだし。
 ササラの口癖だった。

 つづく


散文(批評随筆小説等)  爆裂(上、後) Copyright 鈴木 2008-10-09 19:03:00
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