爆裂(上、前)
鈴木

 大学へ入って初めての帰省だった。吹き降ろしてきた風が祥平を迎えた。両端に住宅の並ぶこの坂の頂上へ向かう彼は、郷愁のなかば強制的であることにおかしみを感じていた。吼え声すさまじかった番犬の家に差し掛かれば覗き込み、頭と体の区別がつかない斑猫がいた塀を目に留めれば振り仰ぐ。「双子の木」と愛でていた梅の花弁を薄雲に漉された日光がくすぐっている――姉は斬られていた。
 それから三度目の十字路で視界の左手が開けた。暴雨時には貯水池、震災時には避難場所となる中央公園では子らが走り回り、奥に祥平の通った高等学校がそびえる。ジャージ姿の女子が走ってきた。公園と学校を分かつ歩道の幅が狭いため、二つの外周を合わせたコースを採るのが運動部のランニングでは慣習となっているのだ。知り合いだった。二つ年下で、友人を介して数度しゃべっただけなので特に親しくはなかったけれども、彼女のくりっとした目は容易に記憶と一致した。祥平の挙げた手を女子は無視する。
 公園にて少年たちは追いつ追われつみな薄着で、コートはすべり台やターザンアドベンチャー乗り場の欄干に引っかけてある。外縁に並ぶ木々はつぼみを膨らませている。
 ――一ヶ月もすれば開くだろう。風の強い日に散りきって地面を覆うだろう。靴底でこすれば一枚いちまいの境界が溶け、なおも続けるともはや花びらとは呼べない薄黒い有機体になり、小さい頃のぼくはそれがなんであるのかひねもす考えたものだ。そしてすべて消え去ってしまう――幻みたいに。
 幼少時、彼は幻を見る子だった。路傍の石を妖精と信じ自室の床を川原のごとき有様にしたり小児科の壁に認めた染みから穀類王国の物語を構築し悦に入り帰宅したくないと泣きじゃくったりなどはざらで、図鑑で得た知識を合成した幻の昆虫へ向かってジャングルジムの上から跳躍し一時間後に腕を吊りつつ「痛み」に話しかけていたこともある。親の心配は尋常でなかったろうと、考えるたびに苦笑する。
 突き当たりのT字路を右に折れればなだらかな頂にマンションが列を為しており、左列の手前から二番目にある三階建て「ハイム高塚台」の一○五号が、小学二年生から高校卒業まで祥平のすごした部屋だ。自転車置き場では学ラン姿の少年が携帯電話をいじっていた。挨拶してみても睫毛の濃い面をディスプレイから離さず黙々と指を動かし続けた。祥平は郵便受けのダイヤルを回しながらため息をついた。
 ――拒否か。
 強迫観念的な懐かしさはそのためであると思い至る。少年がどことなく自分に似ていた気がするのは考えすぎだろうか?
 取り出した封筒には鍵が入っていた。通路に佇む女性に見覚えがあったような気もしたが、そそくさと施錠を解いて入室する。親しげな自家のにおいは普段みじんも感じなかったものだった。嫌な記憶がよみがえり、祥平は口を歪める。高塚台より以前「社ヶ丘パークマンション」C棟・四○一号に住んでいた頃のことだ。
 日曜日だというのに年末商戦どうのこうのと両親不在の部屋で五歳の彼は、与えられた教材でひらがなの読み書きをとっくに習得し終えまた五十音を擬人化し、戦士「あ」を筆頭とする正義の戦隊と魔人「ん」が率いる悪の軍団の戦争が一段落した地上を遊び人「や」や吟遊詩人「ゆ」あるいは不老の仙人「も」と一緒に歩きブラウン管の及ぼす影響について考察していた。かつて多様だった己の世界がヤツのせいで一律化し近頃では二項対立の諍いが続きいささか安直すぎると感じていた。一方で画面を通して報じられる強大な「正義」への憧憬も抑えきれず、やがてふくよかな頬の片側を床にこすりつけてうわごとを発し始めた。要するに退屈した。部屋と彼を映してテレビは黙っている。なんとなくスイッチを付ける気にはならない。閉じたカーテンの隙間から彼はその日はじめて外を見た。雪が降っていた。身を起こし窓辺に駆け寄るとベランダの手摺も他棟の屋根もマンション広場もその中央に立つ楓も一様に白く染まっている。弾丸となって玄関より発射した彼はあせるばかり階段から二度も滑り臀部を強打するがものともせず地上へと辿り着いた。見慣れたはずの通路と車道が日常に飽き眠ってしまったかのようであった。妖雲へかざした手に牡丹雪は降り、火照った肌の上を澄み行きながら伝った。吐息が消えていくのが惜しく深呼吸すれば肺の冷却が心地よかったが、熱が次から次へと発生するので一層の迅速を努めた。通りすぎる車の走行音が興奮に拍車をかけ、眼前に線路を敷設した彼は蒸気機関と化し出発進行を高らかに告げて疾駆し始めた。「社ヶ丘パークマンション」の棟の間の通路は回廊式である。今しがた出てきたC棟から左へ走り出すとすぐにB棟へ突き当たり、左折すれば両側が建物である暗い直線、先はT字路で右に曲がると敷地の外に出てしまうためまた左折して小階段を上る。視界が開けたところで彼は速度を緩めた。マンション広場である。先の二つに加えA棟にも囲まれた憩いの場は半径五メートルほどの円形で、ところどころに置かれたベンチ共々茶を主体とする色調であったのだが、この日はここも白かった。乱れた息で唸る、そのかすれ声は楓へと向けられていた。木は枝に雪を被ってはいるが全体的に褐色のまま、周囲へ溶け込まず、自己を主張することもなく、立っていた。
 両掌でふれた。乾いた、いつもの感触だった。呼吸の落ち着く一方で火照りは増していた。目蓋を閉じて、静かに幹へ額を当てた。彼は麻痺に沈んだ。
 いつのまにか悪鬼羅刹に取り巻かれていた! いやらしい眼差しで舌なめずりする彼らの手にはノコギリが握られている! 楓が危ない! 祥平はいきりたった! 半身になり腰を落とし両の拳を握り締めて胸元に構えた! 自らの考案による格闘術『スーパーウルトラ』の構えである! 力んだ腕の振動が大気中の動物磁気を集積し悪を打ち破る爆発的なパワーの源となるのだ!
 ――我こそはハイパーライト戦隊の祥平だ! かかってこい!
 正道から逸れたクズらを光の徒手空拳で成敗した頃には雪も止み遠く西の空に雲の端から覗く夕日が眩しかった。ただ立つのみの楓も赤くなっていて一枚の大きな紅葉のようだった。照れを覚えた祥平は、口を真一文字に結んで背筋を張り、敬礼を決めた。
 腹が減った。
 C棟の麓まで帰り着くと、若い女性が降りてきた。
 ――あ、祥平くん。
 ――陽子おねえちゃん。
 この冬からA棟に住む結城家の長女で、母同士が学生時代から昵懇の仲であり、妹の茜と祥平が同い年でよく遊ぶことも手伝ってか、高校の授業や遊びのない暇なときはよく構ってくれていた。薄い桃色のつややかな唇が笑みを作り次に開く。
 ――おばあちゃんから野菜がたくさん届いて、少しおすそ分けに来たんだけど、誰も出ないからドアの脇に置いてきちゃったよ。
 ――ありがとうございます。
 ――あれ、嬉しそうじゃないね。もしかして野菜嫌い?
 祥平は口ごもった。陽子が近づけてくる顔は笑っていて、細まった二重目蓋の中に己を見つけ胸を疼痛がよぎった。震える。
 ――好きなの?
 続いて頬を挟んだ掌が彼の芯を再び燃え上がらせた。うなずく。
 ――よかった! 野菜はちゃんと食べなきゃ駄目だよ。じゃあね。
 去り行く姿をちらと見て階段を駆け上がる。プラスチックの籠に入ったビニール袋は言葉通りの場所にあり、ねぎ、キャベツ、はくさい、にんじん、ナス、ピーマンが、色鮮やかに淡色ばかりの視界へ飛び込んできた。歯を食いしばって籠ごと家に入る。うっとりさせる生活のにおいが馥郁と漂っていた。かいだことがあるけれども、かいだことがなかった。
 玄関は暗い。照明スイッチには手が届かない。蛍光灯を付け放したリビングから扉のガラスを通して光は廊下に注いでくるものの源を離れるにつれ蝋燭の火あるいは西洋の剣みたいに細まって自分のところまで届かない。眉をひそめる。違和感を抱くこと自体への違和感が彼を揺さぶっていた。右壁に飾られたシャガールの『クロエの誘拐』の複製画は明と暗の境界に位置しており、闇によってダフニスは天へ飛翔する間もなく頭を割られ、彼の抱く想い人は馘首の憂き目に会っていた。青と黄に血の気を失った二人の背後では、かがんだ男と、馬と、馬に跨った男が、赤く、薄明のなか、笑っている。ダフニスとクロエは笑っていない。死んだ。この絵画にまつわるストーリーを知っていた祥平の思考はそこで歯止めがかかったが、他方で問いが浮かんだ。なにが自分に知識をもたらしたのか? 答えはすぐに親だと得られた。突然、尻の激痛がよみがえった!
 親はなにをしているのか? そろそろ帰ってくる頃ではないのか? 約束のすき焼きは実現されるだろうか? かに鍋でもよいが? 空腹の度合いから通常の晩餐開始時刻午後六時は経過したと推察されるがどうか? 両親共こんなに遅くまで不在というのは例がないけれども悪いことでも起こったのだろうか? もしやダフニスとクロエみたいに炸裂してしまったのではないか?
 以上のような疑問が、おしおきで打たれたときよりも奥深い臀部の痛みや刻々と熱量を増し続ける体内の炎と共にスパイラルを形成し、祥平に情操の放棄を強いた。それからは修羅場である。天地をひっくり返さんばかりに泣き叫び四肢を奮うものだから平衡感覚を失って転び、実際に上下さかしまになって見た『クロエの誘拐』のなか地獄へ勢いよく跳躍するダフニスにさらなる怒りをかきたてられた。無差別な視線が次に留まったのは居間の扉だった。感情の矛先を定めた彼は雄叫びを上げて走りだした。見事なクラウチング・スタートだった。五歳児は木枠に激突してもんどりうった。両手で頭を抑えると尻の痛みが活性化し逆もまた然りであったので片手ずつ両部へ当てるという埴輪のごとき姿勢で悶えた。そのような顔で悶え続けた。声は発情したアザラシに似ていた。
 取手を回すと開いた。部屋の中に音や気配はない。入ってすぐ右の対面型キッチンはゴミ袋のほか手や目の届かぬ代物が置いてある。とても欲しいお菓子も勝手につまみ食いしているのが以前ばれてからは棚の中から上へ移されてしまった。反対側、洗面所で手洗いうがいを遂行する義務を感じたけれどもやる気がおきず、風呂に入りたかったが湯の入れ方がわからなかった。居間へ進む。奥にしつらえたテレビの画面はまったく黒々となにも映していない。キッチンに一面を寄せた五人がけのテーブルにも合成繊維によって暖かなくつろぎを提供してくれるカーペットにも、出て行く前と変わった箇所はなかった。左手の和室との襖を取り払った境界には人の通る隙間を残してソファが置かれていた。寝よう、と、飛び込む寸前に気付いた。なにも映していない?
 ――おかしくない?
 魔人「ん」の情報を、疲労の極に達した頭で思い出す。成仏できない死者たちの王であり闇に生ける悪人共を操る神でもある「ん」は、自由自在に分裂・統合し姿を変え不可視となり空を飛翔し他者の命を奪うのだ。祥平は再びテレビを見た。居間があった。居間なのか? 自分がいた。自分なのか? あれも魔人の見せる幻影ではないのか? 熱い。痛い。さらに耳鳴りが始まって頭蓋のきしむ感覚がする。画面で彼が口を動かし、窓へ目を向けた。つられて視線を移す。
 夜空に赤い月がアメーバみたく広がっている。一端が鋭く伸びて地へ落ちていく。A棟の屋上に「ん」がいる。黄色く光る罅の入った瞳をこちらに向けて下を指差す。広場では楓があるはずの場所になかった。人がいた。月の切っ先に胸を刺し貫かれていた。血液が目のくりぬかれたくぼみからも伝い口の両端が吊りあがっているので泣きながら笑っているようだった。美しかった。母だった。祥平は全身の痙攣と共に絶叫した。
 ――それから先は覚えていない。親によれば高熱と打撲と幻覚のおかげで一週間も寝たきりだったみたいだ。特に幻覚は、こうもりがひしめいているだのモヒカンがいきまいているだの夜中にも泣き出して大変だったらしい。結局、母さんは今だって両目とも無事なままだ。
 十九歳の祥平は「ハイム高塚台」一○五号にて自室の床に座り棚の上にあった柿の種を食べている。背もたれ代わりのベッドと投げ出した足先にある勉強机は小学校の入学祝いで、成長してからこそ寸法の合うものの当初は部屋に一人でいることがたまらなく不安だった。
 ――記憶と幻が混ざって現在ぼくが思い出しているものが正確なのかもはっきりしないのだから、ましてや当時ぼくが見たことを本当にできるわけがない。ただ、あれから誰もいないところで妄想にふけって満悦することが減ったのは確かだ。それから読書に目覚めた。
 奥の壁には本棚が三つ並んでいる。
 ――考えてみれば活字を取り込むことであの悪夢を塗りつぶそうとしていたのかもしれないな。テレビ番組は視覚と聴覚にだけ明瞭に訴えかけてくるから枠の中の出来事という感が拭えず、魔物も芸能人も殺人犯も国会議員もぼくの世界に生まれ変わることで初めて現実になっていた。
 小学校卒業までに読んだものは概して右端に収められていた。
 ――対して書かれたものは文字にすぎず、だからこそすべてを取り出すことができた。大人を連れてきて一緒に寝てもらうこともできたし、知らない土地で見聞を広めることだって難しくはなかった。そして十九世紀のロンドンも少年たちの無人島も、虚構だろうがなんだろうが己の中に再構成する必要なく他者の世界として実在していた。ぼくにとっての読書の喜びにはどこかこういう期待があったのだ。想像による他者の並列で創造による自己の肥大を防ぎ、あの悪夢をそのうちにありふれたものとして始末できるという。
 真ん中の棚には中学生時代の愛読書が陳列していたが、最下段の右から四冊目にある『モモ』は六歳の誕生日に買ってもらったものだった。表紙では女子が無数の時計の並ぶ部屋を裸足にツギハギだらけのコートで歩いている。「時間どろぼうと 盗まれた時間を人間にとりかえしてくれた女の子のふしぎな物語」。眼界の隅で錆色の亀裂が走ったけれども意識した途端に消えている。
 ――なにしてんの?
 結城茜の無垢な声が二人きりの居間に飛んだ。六歳の春を迎えた彼女と祥平は「社ヶ丘パークマンション」C棟・四○一号にて小学校入学までほぼ毎日一緒に過ごしていた。それぞれに幼い子を抱える共働きで仲のよい両家としては必然的な発想であったが、あらぬ方向を見つめて恍惚とした表情を浮かべてばかりの祥平が急に一人を嫌がりだしたことも大きかったのだろう。うつぶせに寝そべり傍らに本を開いたまま彼は先まで見えなかった太陽を窓の上枠際に確認して
 ――寝すぎ。
 と言った。機嫌が悪かった。作り置きの鮭おにぎりとポテトサラダを食べてから茜はずっとソファで眠っていたのだ。いつも読書する特等席だった。彼らの大きさなら共に収まることもできたが、寝相の悪い人間に度々集中を乱されるのは忍びがたかった。足音が近づく。乗っかられ、
 ――なにしてんの?
 耳元でささやかれた。息苦しくて答えられないでいると同じ文句を叫びながら背の上で跳ねたものだから、祥平は意識が薄らぐのを感じつつ断続的に嗚咽を漏らした。解放されたと思えば顎をぐいと引っ張られ、猫じみた瞳が迫ってくる。
 ――本。
 ――これ?
 手に取り表紙を眺め
 ――なんて読むの?
 首を傾げる。茶色がかった髪が揺れる。
 ――「時間どろぼうと ぬすまれた時間を人間にとりかえしてくれた女の子のふしぎな物語」。
 ――モモ!
 祥平はうなずく。
 ――モモこの子?
 うなずく。表紙にはカメのカシオペイアも描かれていて、歩く少女を見つめる微笑は優しさに満ちているようだが見ようによってはサディスティックな趣がある。茜は祥平を仰向けにして下半身から衣類を剥ぐ。抵抗はしなかった。それが一緒にいる条件だった。茜は彼のそれに触れた。中指で付け根から袋へと螺旋になぞっては時おり力を込める。見つめ合っている。他の指が降りてくる。ふくらむ。のけぞる。それに顔を近づけて笑う。くつくつと息の漏れる唇は粘り気のある光沢を含み頬はあの牡丹雪みたいだ。はわせる。のたうつ。あ、あ、と言う。または言えない。
 含まれた。
 祥平が便座に乗って小便するのを茜は見ていた。唾液にまみれた筒から発された金色の液体がねじれながら弧を描く有様を凝視していた。絞りきった後、先端を含み、また、くちづけをした。アンモニアが口内を満たす。とろけた頭で舌を絡める。ひくつく。彼は弄ばれることに病みつきとなっていた。茜を見ていればよかった。打ち興じている間は幻覚を忘れられた。いや、一つだけ、たまに茜が融解して陽子と化す、そんなときは、へその下へ広がる鈍痛に自己がなだれていくのを抑えることができない。下着とズボンを履いて洗面所へ行くと茜が鏡越しに得意げな顔で水を吐き
 ――きれい?
 と言った。疑いなかった。
 ――モモよりも?
 なるほどな、と思った。
 ――だれよりも?
 背徳の喜びを教えたのは彼女ではなかったか。三度目の首肯が終わらないうちに抱きつかれた。祥平がソファを背に投げ出した足を枕に茜は寝そべる。彼は語る。
 ――薄くて黒い紐が、お花になった後、泣きながら壊れて、甘い。砂になって、渦巻き。ふぁーっていっぱいで、ここにも、あそこにも、あるよ。鳩になったり石鹸になったり、よくわかんないこと言う。きらきらしたい、とか、お人形さんが欲しい、とか。……
 これも条件のうちだった。嫌がらず聞いてくれる人に話せば幻も怖くなかった。茜の寝返り次第では頭をなでることができ、やわらかい髪へ幾回も指を通しているうち気づけば墨嵐の轟音にかすかな寝息が混ざり、腿の上の女児は目を閉じていて、スカートの裾から覗く膝裏が白い。自分の体を見せたり触らせたりするのを彼女は拒む。不満に思わないでもなかった。霧の向こう窓の中ほどで日は他の棟を染めて、ただいま、という声がする。
 別の夕方、濃い灰色の雲が一様にふたをする空の下で手を繋ぎ広場を回遊していたときのことだ。なぜいやらしいことをするのかと尋ねた。茜は答えなかったが、赤くなっていった。祥平は頬に滴が落ちるのを感じた。楓には小さいけれどもつぼみが見受けられた。B棟に存在する地下への階段からマンションの管理人が出てきて
 ――こんにちは。
 と言い、
 ――こんにちは!
 二人の挨拶を見て瘤取り爺みたいな顔に満足をたたえた。彼が姿を消すのを目で追っていた茜は力を込めてB棟へ歩き出した。B棟の軒下で振り返ると宙は雨水の引く糸に細分されていた。地下階段は他と同じくU字に折れているが、照明がないため底に届く光はわずかだった。鉄の引き戸にはかんぬきがあり、棒に南京錠がかけられているので自由に解くことができない。唇を奪われた。しなだれてきた茜を支えきれずよろめいて背を壁に打ち付ける。ひんやりと吸い付く。零れ落ちてきた湿気が耳から入って口内をひたす。かき混ぜられる。茜は口の端から漏れた水をなめ取ると祥平の突っ張った両足をさすり始める。また唇を押し付ける。身を預ける力が強く肺は圧迫され、鼻腔から出入りする空気が荒々しいビブラートだった。雨音が聞こえる。笑えないくすぐったさが膝頭から内腿へ移動し、ん、という声が出る。ざらついた舌の表面はやわらかく摩擦し合い硬軟のしびれをもたらす。髪が交錯する。どうしてこんなことをするのだろう。扉は古い。緑色の塗料が右側上部で剥げている。その鉄さびの奥でなにか光るものがあった。目だった。ばらばらに粉砕した瞳が自分たちを覗いていた。熱波が頬を打った。祥平は眼前の女児を抱いた。股間へ移っていた愛撫が激化した。下半身に広がっていた鈍痛が輪郭もあらわに一筋の刃となって脳天を突き破り彼は叫喚した。茜がまぶたを丸く開いた。鉄さびからはゲル状の「ん」が極彩色のプリズムを放ちながら流れ込んできていた。茜だけを見なければ! ズボンの奥で直接しごく彼女の手を握って力を込めるよう促す。あえぐ。目を向けぬようにしていた方向から忍び笑いが聞こえる。強引に倒して馬乗りになり無茶苦茶になでまわす。彼女は抵抗した。
 ――やめて。やめて。
 と言った。物の数ではなかった。それどころでもなかった。祥平の尻たぶにちろちろとなにかが触れていた。スカートの中へ腕をねじ込んだ。なかった。重い感触が肛門を襲った。懐いていた人間から蹴り飛ばされた犬のごとき声を上げて振り返りざま裏拳を放った。空ぶった。扉があった。繰り返される
 ――やめて。やめて。
 が響いていた。やがて泣き声に変わった。
 蛾が舞っている。六歳児の掌に収まってしまいそうな大きさのそれは暗がりの中をゆたりゆたりとたゆたう。地上へ行く気配はない。戻ってくるまで出るなと言い残して茜は去った。雨音はとうに聞こえない。差し込む光は弱まり闇との区別も曖昧に物の輪郭をかろうじて照らした。体育座りで震える祥平の膝へ蛾が止まった。黒地に白い斑点の散らばる羽を合わせて、毛の繁茂する胴が動いている。
 ――泣くな。
 と言った。しゃくりあげながら祥平は
 ――うん。
と答えた。それから蛾は触覚を前後させていたが急に飛び上がった、と思えば影にさらわれてしまった。黒猫だった。瞳孔の開いた両目だけが暗中にはっきりと、吐き落とした蛾へ向けられていた。なぶられる弱者の抵抗は徐々に減じ食器を打ち鳴らしたような奇声を伴って途絶えた。黄色い体液にまみれた骸を咀嚼しつつ黒猫は祥平に近づき差し出された手のにおいを嗅いだ。嚥下すると歯を剥きだした。階段から熊が降りてきて祥平の左側にあぐらをかく。男児を挟む形で猫へ喋りかける。
 ――なるたけ右を取りたかったんだがねえ、うまく見渡せっからさあ。
 右目がなかった。
 ――残念だったなテッチャン。もう少し早く来ることだ。今日みたく一見に取られてしまうことも考えないと。
 ――ああ、この子のことかね。今のわたしにゃ見えないけれども、こうすりゃ。
 体を傾けて首を回す。息が生臭い。喉元だけ三日月のように毛が白い。祥平が頭を下げるとくしゃくしゃな笑みを作って熊はまくし立てた。
 ――どうも。テツでぇす。冬眠から覚めたばっかで腹が減ってさあ、さっきまで狩りをしていたのよ。かなり食べたとは思うんだが、それでも手にかけちゃったらごめんねえ。なんたって人間がいっちばんうまいんだからなあ。
 爆笑が起きた。いつのまにか背後の壁は消失し狐や狼に鷹や虎といった肉食動物たちが並んで祥平を見ていた。『モモ』の表紙に描かれたカシオペイアを想起させた。はるか奥のとある域は獅子の群れに独占されており、大勢の雌が好奇の目を向けてくる中で一頭我関せずといった面持ちの雄が鎮座する。ブザーが鳴る。乱暴な力で首を正面へ向けさせられる。次々沸く遠吠えに応えるごとく目の前の壁が崩れ、舞台の上でタキシード姿の中年男がシルクハットを胸に辞儀した。
 ――ありがとうございます、ありがとうございます! ようこそ『動物大騒擾』へ! わたくしは司会進行役の「ぬ」と申します以後よろしく! 今宵も珍技三昧の満漢全席、花咲き乱れまして婀娜な様まさに天上界、の、催しを厳然たる事実すなわち現実、おっと漢字が違ったかな、として皆様のお目にかけようという次第でござる!
 青年の祥平は当時の語彙を超出する回想をいぶかしんだ、が、鼓膜の内で奏でられる弦楽に引き寄せられていった。チェロ、ウクレレ、バイオリン、マンドリンの、和音も旋律もあったものでないノイズに、聴衆は演奏がかき消されるほどの喝采を浴びせた。上座から蚊、鼠、兎、鹿が現れる。後ろ足で立ち上がった鹿の頭に兎が逆立ちし、そのピンと伸びた後ろ足の間へ鼠が肢体を突っ張らせた。あとは蚊の接着を待つばかりだった。さらに登場した四頭の豹が曲芸者たちへ飛び掛った。首を破られた鹿は果てるまで
 ――やめて。やめて。
 と言っていた。豹が絶命した草食動物をくわえて袖へ下がれば、蚊が床に広がった血を吸い始め、蛭が落ちてきて怒鳴る。
 ――生きた血を吸いなさい!
 ――うるさい! うるさい!
 ――ならば! ならばこうだ!
 殺虫剤を散布した。血の海にぽとり落ちた蚊を睥睨しているとネグリジェ姿の羆がやってきて客席へキスを投げた。蛭は
――突貫!
 と毛で覆われた後足へ取り付いたものの、蹴たぐられているうちにちぎれた。甘ったるい
 ――きもおい、ありえなあい。
 言い回しと共に羆より放られ下座へ消える残骸に観客は悲鳴を上げた。
 ――大事なタンパク質が!
 次に登場したのは人間の雄で、両手首を縛られて全裸だった。「スタッフ」と印刷されたシャツを着た猿からナイフを当てられようよう歩いていた。俯いた顔は判然としない。
 ――きゃあ。まじいけめんじゃね?
羆の嬌声に上げた面を照明が白々と映し出した。半開きの口から涎が落ち生気を失った目は涙を流していたが、自らの頭部より大きい舌でなめまわされると嬉しそうにした。唖然とした。父だった。羆の愛撫を受けてよがっていた。祥平は顔を背けた。テツに見つめられていた。その顔は自己紹介時の笑みでなく肉を前にした猛獣のそれであった。舞台へ見入る黒猫をとっさに掴み牙の光るテツの口へ放り込むと舞台へ走った。父を救出せねば!
 ――猫うめえ!
場内は騒然となった。振り返るな! 獣たちの牙と爪を避け、あるいは喰らいながら駆ける。階の前に三匹のスタッフ猿が立ちはだかっていた。手にはノコギリが握られている! 横薙ぎをかがんで交わしハイパーライトジャンプアッパーでまず一人目! 着地を狙う袈裟切りはバリアーにて跳ね返し狼狽した顔面へハイパーライトミサイルパンチで二人目! ビームで三人目!
 ――タピオカ!
父だ。仰向けの羆へ腰を打ち付けている。流血で朦朧としながら祥平は舞台へ上がった。体毛の薄い背に数歩と迫る。
 ――パパ!
 首だけ飛んできた。
 ――あたしはね、人間が好き!
 残りは元の場所で食われていた。びいどろめいたしぶきが吹き上がって祥平の頬にもかかった。父は次々に引き裂かれて人の形を失っていく。息子は
 ――やめて。やめて。
 と言った。やめなかった。激怒した。羆の両断へ動物磁気を溜める。あらゆる方向から穏やかならぬ言葉を浴びる。見渡す。肉食動物共が爛々と輝く目で攻撃態勢をとっている。構いはしない。
 ――我こそはハイパーライト戦隊の祥平だ! 覚悟しやがれ!
だが拳を突き出すことは叶わなかった。羆との間に雄獅子が割り込んだのだ。百獣の王は先ほどの無関心な表情とは打って変わった獰猛な目つきで祥平を睨みつけた。吼えた。周囲の野次が沈黙へ変わるほどの怒号だった。「ぬ」の高笑いが響く。
 ――『動物大騒擾』! 愉快々々……。
 揺れていた。肩を前後に振られていた。名を呼ぶ声が聞こえる。陽子が心配そうな顔をしている。周囲は壁もそのままに錆付いた扉があるばかりだった。体育座りのまま妄想へ埋没していたようだ。
 ――気がついた?
 祥平は立ち上がり口をぱくつかせた後、陽子の胸にくず折れた。
 C棟の階段を共に上る。雲の去った濃紺の天に星がまばらに散っていた。陽子の手はじんわりと湿っていて滑りそうだったからきつく握り締めた。たまに向こうも力を込めてくれるのが嬉しくてにっこりすると乾いた涙の筋が痒かった。途上なにを話したかは覚えていない、無言だったかもしれない。玄関の手前で彼女は
 ――ばいばい。
 と微笑んだ。渇きに似た感覚が胸に満ち言葉を放てば消えてしまう気がした、あるいは消えてしまう方がよいように思った。だが祥平は応じることができなかった。蛾が舞っていた。電灯にまとわり続け、こちらへ近づく様子はない。扉を開ける。両親はまだ帰っていなかったが、じき父親と風呂に入ることができた。その夜はもう幻を見ない。
 ――なにをしているのだ、せっかく忘れていたのに。もうすぐ大学二年生を迎えるぼくには恋人がいて名を絵里奈、えくぼの可愛らしい自慢の彼女だ。サークルは新入生歓迎に向けて動き出し、ぼくと絵里奈はお花見幹事だからケータリングや二次会の手配に万全を期して楽しい飲み会にする。当サークルは大学公認であるからして未成年の飲酒を認めるものではないが学生証による年齢確認を強制できないならば詐称されてはいたしかたがないよね大いに飲みたまえ諸君! 一浪して既に成年なのだからぼく自身を糾弾しようったってお門違いだ。そう、ぼくは普通の人間で現在を謳歌している。それでいいじゃないか。血生臭くて真偽も定かでない過去にかまけてなどいられない。これでおしまいだ。いつ帰ってくるのか母さんにメールしたらツタヤにでも散歩しよう。
 フローリングを金属の叩く音がした。ページのあわいからなにか落ちたようだ。鍵だった。傷だらけで先端の腐食したそれを拾い上げて唾を飲み込む。
 ――消えろ! 忘れろ! 違うことを浮かべろ、絵里奈だ、ああ最愛の絵里奈、今のぼくを作り上げてくれた絵里奈、丸顔に少しはれぼったい目が似合って小鼻がきゅっと高く唇は肉感的で笑うとそうそうえくぼが可愛らしい?
 勉強机の右側には引き出しが四つ積まれており最上段にだけ鍵穴が設置されている。施錠を確認すると彼は持っていた鍵を差し込んだ。小さく音がした。開く。およそ一センチメートル四方に切断された紙の大量に入ったビニール袋を取り除いた下に輪ゴムで束ねられた数枚の写真があった。一枚目はカマキリのつがいが入れられた虫かごを撮ったものだ。二枚目には小児用の浴衣姿の祥平と茜が両者で『モモ』を持ち温泉で上気した顔へほがらかな笑みを浮かべて写っていた。三枚目から五枚目までは中学進学時に自己撮影したバストアップで、どの祥平も爽やかさの裏からケレン味がにじむ顔だった。次が最後だった。まじまじと見た。彼は声を上げた。
「嘘だろう」

 つづく


散文(批評随筆小説等)  爆裂(上、前) Copyright 鈴木 2008-10-09 18:57:49
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