映画日記、ただし日付はてきとう2
渡邉建志
2007/10/31
映画は時間とともにヨコに流れる「時間芸術」である。しかし、それはときに、一瞬にして強く深くタテへ垂直に食いこむような感銘を観るものに与えることがある。そのタテに喰い込んだ感銘だけで、その映画のことを覚えていられるし、逆に言うとそういう時を止める強度のない映画に興味はない。そのショットにおいては、宇宙観、世界観ともいうべきビジョンが、時間軸に垂直に、(ぐわっと)広がる。そういったショットは、作家の絶対的確信を持って撮られているものだということには、間違いがない。作家は必ず強い確信を持って、あるショット、ここぞと言うショットを撮らねばならぬ。たとえ、見るものが、「この場面はいったい何を意味しているのか分からない」と思っても構わない。「何を意味しているか分からないけれど、とにかくこのショットには作家の並々ならぬ切実さがある」と思うならば。
時を止めるということ。切実なメタファー。
大江健三郎が「オペラをつくる」(岩波新書)で、映画と小説を比較してこんなことを述べている。
小説の場合、時計の針をいったん止めて、その瞬間での情景を説明をする事ができる。たとえば、馬車が走っているシーンでは、馬車には屋根が付いていて、屋根の上にはシェードみたいなものが縛りつけてあって、御者の横には女が乗っている、ということが語られる。そしてまた、時計の針が進行しはじめる、「馬車は走っていく…」というふうにして。
一方、映画の場合は、時間を止めることができないために、いつも現在としての場面を呈示することになり、メタファリックに拡がる瞬間がない、と、ある若い学者が言う。ところがたとえばタルコフスキーを見れば、情景が進行しているのだけれども、そこにひとつの大きなメタファーが停止したように拡がるのを確認することができる。このように大江は語る。
タテにメタファーが直立して拡がり、それがメトニミックに物語を横につなげていって、そしてまたメタファーがタテに拡がる、そのように進行していくものが、小説のみならず映画でも可能であるということ。世界とはこういうものだというビジョンが一挙に提示されるメタファー的な瞬間が、なんとかかんとか物語の軸において、時間を与えられつながっていくということ。(物語というものは直立するメタファーを横につなげるための装置にすぎない、などというと極言だろうか。)そのビジョンなりメタファーなりが、魂の救済と強く結びつくとき、アンドレイ・タルコフスキーの映画の宇宙は、見る者の心の中に立ち現れ、拡がり始めるだろう。
僕はビクトル・エリセとアンドレイ・タルコフスキーと佐々木昭一郎が好きなのだけれど、同じくこの三人を好みの作家に挙げる河瀬直美の「殯の森」を見ながら、大江健三郎が武満徹に語りかけていたこの「縦に拡がるメタファー」ということを強く思い出さずにはいられなかった。「殯の森」はストーリーとしてはややリアリティに欠け、横の展開で人を惹きつける映画だとは言いがたい。しかしながら、ところどころに「縦」の瞬間が露呈するところにこの作品の魅力がある。
最後のシーン。主人公の初老の男性が穴を掘る。とにかく掘り続けている。なぜ掘るのか分からないまま、われわれは彼が穴を掘り続ける行為を見続けることを強要される。見る人によっては、単に退屈でつまらないシーンかもしれない。しかし、その行為には、無目的的に見えるがゆえにかえって何らかの彼にとっての切実さが伴っているようにも感じられる。その切実さに共振しえた時、見る人のなかにひとつのメタファーあるいはビジョンが拡がるのだ。このシーンの切実さは、演技者、キャメラ、音声、監督、その場にいたすべての人たちに貫通しているように感じた。そしてその切実さは見る者へまで突き通り、その心の中で拡がりうるものではなかったか。
彼は穴を掘ったあとに、穴にうずくまって寝転がる(この行為もまた何のためだか分からない)。そこへ空からヘリコプターの音が降り注いでくる。ストーリー的に解釈すれば、このヘリコプターは山に遭難した彼の救助のために来たにすぎない。しかし、ここで(映されることのない)ヘリコプター=彼=穴の垂直の関係のなかに、「殯の儀式を終えた彼への天からの祝福」とでも言いうるメタファーが拡がっていないだろうか。それはたとえばタルコフスキー「ストーカー」におけるゾーンの「部屋」に降り注ぐ祝福の雨のようなメタファーだ(これもまた天からの垂直な運動)。
「何かを信じて」穴を掘るという行為の切実さは、同じくタルコフスキー「ノスタルジア」の温泉のシーンにおけるろうそくの火渡しの行為の切実さと同種のものだ。「ノスタルジア」のこのシーンにおいては、主人公が手に持ったろうそくの火を対岸のろうそくへ点けようとして、こちら側の岸からゆっくり歩いていくのだが、風が強くて途中で消えてしまう。すると主人公はまたこちら側の岸へ戻って、延々と同じことを繰り返す。シーンはカットされず、ろうそくの火が無事に対岸に着くまでキャメラは回され続けるだろう。その過剰なまでの切実さ。ある人はこの長い長いシーンを退屈の一言で片付けるかもしれない。しかしその切実さを汲み取るものには、その「行為」がいかに彼らの魂(とその救済)に深く突き刺さっているかを感じ取るだろう。その過剰なキャメラの長回しにおいて、たしかに時間は流れているけれど、本当に時計の針は動いているのだろうか?ひとつの切実なメタファー/ビジョンが演技者とキャメラと観客を貫いて拡がるとき、それは止まっているのではないか?
映画を見るとき、不意討ちのように、われわれはこのような強くて深くタテに垂直に入り込むようなビジョンを目撃することがある。そのような体験を求めて、いつも期待はずれに、僕は映画を見続ける。
2005/5/11 アッバス・キアロスタミ「オリーブの林をぬけて」
ラストシーンがうへーっとおもった。開いた口がふさがらない。こんな終わり方ありなのかとおもうが、不条理だとはおもわない。これはすごい。前半、なかなかストーリーらしいストーリーが出てこないので焦ったけれど、後半は本当に素晴らしい。俳優はすべて素人で(一人だけプロ)、特に、恋する若者の役をしている人が、すごく自然な演技でやられた。発声もプロの役の人と比べて(ふたりで話している場面が多い)良くないけれど、そのぶん台詞に真実味が出てきた時がすごいのだった。とにかくラストシーンだけのためにでも見る価値はあるんじゃないか。
2005/5/16 ヴィム・ヴェンダース「パリ・テキサス」
ラストシーンがすごい。静かで、暗くて、カメラは上方から父親の全身と暗い道を撮っている。父親の表情はみえない。沈黙を破ってライ・クーダーのスライドギターが鳴る。いままではきざでうるさいと思っていたこのギターが、なんと渋かったことか。涙が出た。
2005/5/23 クエンティン・タランティーノ「パルプ・フィクション」
冒頭のチンピラ女の子の切れ方が最高。テーマ音楽の次に流れるバリバリのブラスの半音階・オクターブ並行進行の曲が最高。この曲にもってかれた。全体的に音楽の使い方がうまい。うるさくなく、かといって「主張せず」ではない。「覆面」の登場シーン最高。覆面弱くて笑う。ろりろりした女の子の乳首透けさせるのせこい。肛門に大切に入れといた時計について真剣な顔をして語る父の友人とそれをためらいなくつかむ少年。基本的に会話が面白い。「君たちの未来が見える…君たちはタクシーに乗っている」といって、車で送らずに去る男。
2005/6/6 ジーン・ケリー/スタンリー・ドーネン「雨に唄えば」
ジーン・ケリーやばい。この怪しげな笑顔は現代でも十分シュールに面白い。にかっと笑う顔が無菌室っぽい。ディズニーアニメっぽい。超胡散臭い。超表面的。たぶんそれを本人もギャグとしてやってるんじゃないかと思う。ジーンケリー踊りすぎで最後ちょっとだれるけど、しかしちょっとこのタップダンスはすごいよね。ギャグがいちいちおもしろい。踊り子キャシーの踊りがかわいすぎ。常軌を逸した可愛らしさだ。これは絶対見るべきです。
2005/6/11 イングマール・ベルイマン「ある結婚の風景」
へー、こういうのを「逆ギレ」っていうんじゃないか、という典型が見られる貴重な映画。
カメラの動き方が異常さを出している気がした。今まで固定していた画面が、突然スライディングしていく(そのスピードの速さ)、そして何かを映す(たいてい表情)。あるいは突然のズームインズームアウト。
ベルイマン作品の中でも「不良少女モニカ」とは違って、こっちのほうは、現代でも十分通用する刺激的な作品だと思う。「ファニーとアレクサンデル」ほどじゃないけど、お勧めできる。(「ファニー」はめちゃくちゃ面白いです。)で、基本的に夫婦の性生活の話ばかりしている。しかも、性交渉は絶対に映さない。夫婦2人だけの会話だけで、映画のほとんどの部分が構成されている、すごい!しかも退屈しない。(ただ、最初の1時間は退屈した。でもそれから2時間がすごい。)
自分が直面している問題を突きつけられたような気分。結婚とはいつまで続くのか。性とはなになのか、その重要性とはなになのか。浮気とはなになのか、愛とは何なのか、嫉妬とは何なのか。(浮気された妻が、夫に、愛人とのセックスを尋ねるシーンのあたり、心の中にずんとくるものがあった)
2005/6/21 スタンリー・キューブリック「博士の異常な愛情」
まずドクター・ストレンジラブって言う人物名がすごい。次に、それを「博士の異常な愛情」と超意訳する日本人もすごい。しかも、ストレンジラブさんぜんぜん主役じゃない。ぼくらとしては、核爆弾にまたがってお約束どおり落ちていく大佐をもって主役としたい。
初めて見たときの衝撃は忘れられない。もうたぶん3回も見たから、最初のとき見た衝撃はもうもらえない。やはりこれはある種のビックリドッキリメカみたいな作品であって、最後の最後になにが来るかを知っていては駄目なのである。
いつも思うんだけど、音楽は映像を支配すると思う。だから、絶対に泣けるシーンで泣ける音楽を流してはいけないのだ。音楽が、シーンに勝ってしまうからである。深夜番組の買い物番組で、後ろのおばさんたちが「まあああ」とお買い得感を強調すると、せっかく買う気になっていたのに、急に買う気が失せたりする。キューブリックの音楽の使い方はとても好きです。
核を落とす命令を受けた大佐が、突然カウボーイハットをかぶるシーンが堪らなく好き。そのときの音楽。南北戦争の時に作られた凱旋曲「ジョニーが凱旋するとき」。これをいちど見てしまうと、このためにあらかじめ作られていたのではないかと思うぐらいすげー。
2005/7/10 アキ・カウリスマキ「ラヴィ・ド・ボエーム」
やばかった。日曜日のピクニックの公園、白黒画像の美しさ、そこでの音楽(あれはなんだったっけ、、、チャイコフスキーだと思うんだけど)の素晴らしさ!こんなに美しく使われるなんて!と思った。だけどあの曲名前が重い出せなくて、いま一生懸命検索かけてるんだが出てこないくっそー!!知ってる人、誰か教えてください(夜も眠れない)。クレジットにも出てなかったし!気になる!だけどその後の眠気のせいでメロディーが思い出せないんだけど!そこのキスシーン、手にもった花が手がほぐれていって原っぱに落ちていく描写。息をのみました。美しい。全体的にはチャイコフスキーの弦楽セレナーデが美しく使われていた。3楽章のエレジーが実に美しく。
セリフが良かった。男二人が、仲間の男と恋人の邪魔をしないように、部屋から出て行くシーン。「ちょっとタバコを買いに」「ハバナまで」
マッティ・ペロンパーが、身寄りのないミミを部屋に泊めてあげ、自分は部屋から出て行くシーン。「きみは美人だし、僕は手がはやいときている」
マッティ・ペロンパーがミミがさむいと言うので、薪が無いので、引き出しから燃やすための紙束を出すシーン。「これは僕の詩だ。いつか詩集を出そうと思っていた」
たまらん!
2005/7/14 成瀬巳喜男「歌行燈」「鶴八鶴次郎」
成瀬もう駄目かもと思っていたけれど。撤回。前言撤回。ヤヴァイ。成瀬すごい。歌行燈の最後で、おろおろと泣いている私。鶴八鶴次郎で笑い転げている私。なんというか、戦後の50年代作品(「めし」、「浮雲」)より、こちらの戦前作品のほうがずっと現代的な気がした。そりゃ画像は古いし、ちょっと傷も付いてる感じだけど、白黒の美しさ、とくに歌行燈の森の中の光の撮り方なんて、もう幻想のきわみと言うか、それに山田五十鈴がなんて綺麗なことか。もう。めろめろです。ファンになりました。2作とも出ていて、2作でがらっとキャラが変わるんだけど、両方魅力的。男性陣は相変わらず演劇口調で、ちょっときついなあと思うんだけど。どうしてみんなあんなに演技演技しているのかなあ。それでも山田五十鈴は可愛いからぜんぜんいいんだけど。とにかく萌えごころを断続的にくすぐるつくりになっていて溜まりません。こういうのを見ると、うちの祖母とかが「アメリカとか今の若者の恋愛って直ぐ体に行って感心できない」と言う気持ちがよく分かります。気持ちなんて一言も言わず、かっこよく去るわけです。主人公同士の手が一瞬触れただけでもうどきどきします、あ、今触れた!とか思って。萌えですね。それでも何も言わず去って行ったりするのですね。
今の映画より絶対面白い。とにかくね、着物ですよ着物。日本人女性は着物ですよ。それから白黒の映像に映えるあの色の白さですよ。首筋の白さですよ。エロス、まさにエロスです。
2005/7/22 マーティン・スコセッシ「タクシードライバー」
激烈にやばい。
デ・ニーロが夜のタクシードライバーになる。乗ってくる、あるいは外を歩いている、ニューヨークの下層の人々の、怒り、嘆き、苦しみ、混沌、ドライバー自身が孤独に苛まれる、変わらない毎日、不眠症、ポルノ映画、場末の。銃。
暗い。気持ち悪い。不安。不安。音楽が不安を掻き立て、それが前半多少あざとい感じをさせ、前半で見るのをやめたくなった。どこにも救いがなく、誰も笑わない。そこに恋愛が入り、多少の救い。銃を買い、鍛え、なんか暴力的になっていく主人公。マッチョ的なものが嫌いな私はこの辺で吐きそうになる。何だこの映画は。でも、後半になってきて音楽も気にならなくなり、引き込まれ、最後の最後が本当に本当にすばらしく。黙って、バックミラーを見るデ・ニーロの視線!!
見るときは、ぜったい全部通しで見なければなりません。カタルシスが違うと思うし、いや、本当にこの映画、お勧めです。現代性をまったく失っていない。同じ不安を今でもみんな抱えているはずで、それにたいする何か(ヒントかもしれないし、答えかもしれないし、同情かもしれないし、なんだかわからないけれど)がここにはある、かもしれない。
2005/7/29 フランク・キャプラ「素晴らしき哉、人生!」
ちっぽけな町のちっぽけなローンやさんに生まれてしまった才能と野望のある若者は、町の独裁を図る悪の権化的ポッターじじいから町と父の会社を守るため、ちっぽけなローンやさんを継ぐことになってしまう。俺の人生こんなはずじゃなかったっておいこんなきれいな奥さんもらいやがって贅沢だぜコノヤローなはなし。
まったくの娯楽映画である。だからといって価値が下がるかというとそうでもない。たしかに最初のほうはもうちょっとなにか雰囲気がほしいなあと思ったし、まあ物語で進んでいくな、と思った程度だった。しかも最後に行くにしたがってその物語にも納得行かなくなった。しかし本当の本当の最後2分で、とめどなく涙があふれた。泣かないぞ、泣ける映画だと先に知っていたから、余計ちょっとやそっとではなかないぞ、という態度で見ていたのに。思いっきり泣いた。誰にも見られないように頭を抱えて、おいおい泣きながら最後は声だけ聞いた。最後よければすべてよしだとおもうので、これは激お勧め。ほんとに途中がヒドイ物語だったけど。
2005/8/5 ホウ・シャオシエン「風櫃の少年」
台湾のいなか港町の不良少年が街へでて、淡い淡い恋心を抱くはなし。
ヴィヴァルディやバッハの使い方が最初ぴんとこなかった。画面上にいるのはばりばり台湾人で、それで流れるのだもん。しかも、淡色の子供時代を回想するシーンで流したりするから、惑星ソラリスとか思い出しちゃって、それよりはあんまりよくないので、ウームと思った。いろんな要素が入りすぎている気がした。だけど、後半、美しい家の舞台が中心になるあたりから、どんどん引き込まれて、主人公の少年に共感して(彼は日本語を勉強したりして、頑張るのだ。「あ、い、う、え、お」)、ごめん、最後はじわじわと涙がにじみ出てきました。はげしい嗚咽ではなく、終わってだんだんこみ上げてくるものがありました。なんだかんだいって最後が素晴らしかったので、長いと思わせる映画だったけれど、満点ですよ。少年ばんざい!最後の市場シーンばんざい!G線上のアリアばんざい!少年の頑張る声のフェイドアウトばんざい!泣きましたよ。少年の声のフェイドアウトと比例してだんだん強く。お勧め。
2005/8/17 ロベール・ブレッソン「バルタザール どこへ行く」
ナンジャコリャァ!と何回か思った。僕にとって、衝撃が何回か走ったのは、ブレッソン映画としては珍しい。ラストとか。あとは、淡々としてるのととんでもないのとで、僕には理解ができない。
いやあ、人間って嫌だよねえ。ロバが主人公なのに決してかわいい映画ではなく、相変わらずブレッソン的にみんな不幸である。ロバのバルタザールはしばかれどおしである。味方のアンヌ・ビアゼムスキーも、バルタザールをいじめる悪党にめろめろである。この悪党と言うのが、どうしようもなく悪党で、見ながら、死ねと思う。ただ、心が休まるシーンがないわけではなくて、たとえば最初の小さい恋人たちとバルタザールが藁の中でいちゃついているシーンはたまらないし(バルタザールはいやがっていそうだったが)、バルタザールがサーカスに雇われるときの、ライオンや像や猿との対面のシーンは、くすっときた(相変わらず映像は寡黙なのだけれど、バルタザールの瞳を撮り、ライオンの顔を撮るその切り返しのタイミングとか、そういうのがじつに、くすっとくる)。それにしてもバルタザールはむしろブレッソンに酷使されたのではないか?足を引きずったり、血を流したり、挙句の果てに死んだり、大丈夫なのか?人間から演劇的そぶりを奪ったブレッソンが、ロバという存在を撮ったというのは、非常に面白いことだと思った。
2005/9/20 キム・ギドク「サマリア」
鬼才。完敗。変態。少女、ただ存在としての美しさ。とんでもない幻想シーン。負けた。天才。少女二人の入浴シーンとかキスシーンとか、撮りたかったんだね、と思う。ストーリーがすごすぎて沈黙。ラストシーン熱い。なける。でも問題は音楽のセンスのなさ。この監督作品の盲点。安い。飛び降りシーンのショパンはよかったのだけどどうして変なアレンジするんだろう。とくにドライブシーンのアレンジ。私は映画音楽の仕事は「いかに音楽を入れない(!)豊かな時間を作るか」じゃないのかと思っている。挿入される音楽なんて、その退屈しのぎというか、場面転換程度でよいのだ。でもお勧め。
2005/9/25 勅使河原宏「砂の女」
タルコフスキーお勧め映画10の1。まるで日本版タルコフスキーみたいだった。タル映画大好きの僕とすれば最大の賛辞。流れる砂の使い方はほとんど「鏡」の水とか野原みたいだった。心理を仮託された風景。音楽が武満徹でまた凄いんだこれ。岸田今日子がすごくエロチック(胸開きの着物!)で、意外とかわいくて、でも声は今の岸田今日子と同じだった笑。ちょっとこれは見とくべき映画だ。
2005/9/26 トラン・アン・ユン「夏至」
絶句。すげえ!途中ちょっと弛むが、しかしこの映像のオリジナリティ!こんなに美しい映像を見たのはほんとうに久しぶり。ロスト・イン・トランスレーション以来かな。しかも音声もほんとうに素晴らしい。音楽が邪魔してない。雨の音が音楽だ!しかも原色の美しさ。女の人の髪の毛のぬれたような光!海の緑色!しかもここに余計な音楽が重なっていないというのが、(当たり前であってほしいのだが!)すばらしい。やられました。トラン・アン・ユンばんざい。女の子に生まれた幸せみたいなのを謳歌していて。カメラワークが独自でしかも美しく、驚かされた。ゆっくりと時間が流れていき、一言で言うと癒された。アオザイバンザイ。いやあ、自分がもし女の子だったら間違いなくアオザイ着るよね。彼女できたら着せるよね。超お勧め。ストーリーはたいしたことないけど、とにかく映るものすべてが美しい。とにかく、色!色の喜び!
2005/10/9 トラン・アン・ユン「青いパパイヤの香り」
この監督はほんとうにすごいなあと尊敬の念に耐えない。音の感覚がすごくいい。空間の感覚も色の感覚もすごくいい。もうすごいいい。ため息しかつけない。こんな人がいるならぼくが映画なんて撮らなくっていいや。あぁ。
2005/10/17 トラン・アン・ユン「シクロ」
やっばーーーーーーーい!! 夏至、パパイヤに比べれば、色彩の美しさはやや劣るが、タルコフスキー的な火と水の幻想的な世界、特に火はすごかった。カメラの動かし方はこれ以上美しい、呼吸のような動かしかたを考えつかない。構図のすごさ、金魚の口の動きは見ていて、絶叫しそうになった。狂気と大衆性のバランスをちゃんと保って映画が作られている。トラン・ヌー・イエン・ケーの美しさはいつもどおり。彼女の無表情の美しさ!彼女があの無表情で白い下着だけで立っている姿は、娼婦というより、もはや仏であった。もうそれだけでいいとおもった。ただ、黙って存在するだけで美しい。髪を洗っているだけで。
2005/10/30 セルゲイ・パラジャーノフ「火の馬」
うっへー。前半、手持ちカメラの揺れがやや気になったが、後半、瞬発力的に繰り出される不思議な映像効果にうへーってなる。血の馬とか、シューベルトの魔王みたいなシーンとか。あと、男の子と女の子が初対面で裸で水遊びしながら名前を教えあったりしているのが、ほほえましかったです。ってだけかくと、すごく勘違いされそうだな...ときどき、ものすごく狂ってました。その狂いかたが只ならぬ妖気を発していました。短い挿話がたくさん重なっていく感じで、ちょっと間延びする感じの挿話もあるが、テンションが異常に(!)高い挿話もありそれはもう本当に素晴らしく。ちょっとビックリしてしまいました。見た後激しい脱力感がありました。しかしお勧めデスよこれは!ヒロインがかわいい!
2005/11/6 イングマール・ベルイマン「夏の遊び」
唖然。最初とても明るい恋愛映画で、悶えるほどの恋愛もので、明るくて眩しくてたまらなかったのが、急激に人生の深淵を覗き込むようなベルイマンらしい映画に急展開して、これもまた見終わった後でぼこぼこに殴られたような衝撃を受けた。もうこれ以上、映画みなくていい。と思った。本当に、もうしばらく映画を見られないかもしれない。ベルイマンはこの映画が自作で一番好きなのだそうだ。「『第七の封印』は頭で作ったが、これ(『夏の遊び』)は心で作った」と語っている。ヒロインのマイ=ブリット・ニルソンがすごくかわいかった!あの足の美しさ、白さ!表情の輝き!スウェーデンの夏の海と空の輝き!
2005/11/13 フリドリック・トール・フリドリクソン「春にして君を想う」
ぼろ泣きしました。映画全体が静寂なのにもかかわらず(いやだからこそ逆説的に)、もっとも美しい音楽映画だと言えそうだ。前半はあんまり面白くないですが、後半アイスランドの風景がたくさん見え始めるころから、映画は独特の盛り上がり方を見せていき(それは決してハリウッド的クレッシェンドではない!常に画面は静かであるが、それでも何かが、何かがクレシェンドしていき)、すばらしい最後を迎える。おじいさんの最後15分ほどの行動に、涙が止まらず、鼻水を啜り上げてしまい、ちょっと恥ずかしかった。見終わった後頭を抱えこんで泣いてしまって、でも平和な気分で観終えることのできた映画でした。
2006/1/17 ヴィターリー・カネフスキー「動くな、死ね、蘇れ!」
打ちのめされた。見終わってから数分動けなかった。これは、見ることを強要する映画だ。世界はこの映画を見た人と見ない人とに分けられる。何という若さ。何という緊張、暴力、緊張、恋愛、狂気、ユーモア。2時間に全てがあった。音もすごかった。渋谷をふらふらになって歩いて帰った。電車でも立っていられなかった。世界が揺れた。頭が揺れた。
2006/3/11 キラ・ムラートワ「長い見送り」
またしても、「わけのわからないもの」をみてしまった。驚愕。唖然。圧倒的。涙は出ない、そういう類のものではない。笑いすらできない。金縛りにあった、しかもそれは緊縛ではない、ソフトな縛り方で、たぶん私が動きたがらないだけ、という縛り方だった。パラジャーノフやカネフスキーを見たあとは、それこそ力で捻じ伏せられ、緊縛されたのだけれど。例によってソ連によって「隠されて」しまった映画であり、映画監督である。隠された女性監督、キラ・ムラートワ。ソ連という国は、ひょっとしたら圧制によってこれだけのすごい映画監督たちを逆説的に生み出してしまったのではないか。常識を超えたすごい映画は必ずソ連だ。パラジャーノフ「火の馬」、カネフスキー「動くな、死ね、甦れ」、ソクーロフ「日陽はしづかに発酵し…」「マザー・サン」、それにタルコフスキー「鏡」「ノスタルジア」等等。これらの作品は私の「映画」という概念そのものをひっくり返した。映画はまず音である、ということを認識させられた。たとえば「日陽」の、ノイズみたいなすさまじい音楽。タルコフスキーの沈黙。そして音の感性のいい監督はなぜか必ず映像も美しい。すべての映像と音の意味がわかりすぎて、どうしてこんなことを思いつくのかがわけが分からない。冒頭、浮遊するように移り変わっていくショット、カメラの突然の動き、フォーカスのとつぜんの動き、木の向こうで話している女の子をぼーっととっていたり繊細さ、そしてそれらをつなげているのが実は音楽。ピアノ曲がなり続けている。G音を執拗に打ち続けている。そしてそのGの下を、最初は長三和音が支えているが次第にショスタコーヴィチ的展開になりはじめ、和声が狂い、その瞬間ごとに映像が変わり、ピアノがフォルテになると映像もフォルテになり、ピアノが静かにまた長三和音の世界に戻ると映像もまたそれに付随して追いかけてくる。すごかった、ピアノの狂い方がまったくすごかった。生々しかった、ミスタッチまでもが。そして、物語自体はたわいもないのに、映像だけで見飽きない。というかおなかいっぱいになってしまう、その物語を忘れさせる恍惚、これが映画を見るときの一番の快楽だと思う。だからハリウッドは嫌いなんだあたしは。物語なんてどうでもいい、イきそうになる瞬間がいくつかあれば、宝石のようにあたしの心に突き刺さるシーンと音があれば、それで愛することができる。この映画はそういう完璧なシーンがちりばめられていた。女の子の視線と男の子の視線の交差、ソ連だからセックスシーンは撮れない、だからこそ逆に徹底的に考えられた、視線だけでのエロティシズム。90度に交差した椅子を後ろからとって、私からは彼らの視線の交差は見えない。ただ、椅子の真ん中に白い犬が座っているのだ!そして彼らはおなじ犬を撫でているのだ、その二つの手が白い犬の背中を撫でるクローズアップ!これはだてなエロシーンには勝てないエロさだった。なにしろ、二つの手は、決してふれあわずに、ただ、犬を愛しているのである。にもかかわらず、なにかのエロティックな思いが二人に交差している、とくに女の子の手の美しさ、彼女は白い服を着て、彼は黒い服を着ている、そして71年の映画にもかかわらずわざとムラートワは白黒映像を選んでいるのである。女の子の白さの美しさは尋常ではなかった。男の子の悩みが黒に表れていた。女の子の髪の毛は金色(おそらく)に輝き、そこに結ばれた黒いリボンを男の子は後ろからほどいて、その髪にキスする、のは、彼の妄想だったのだろうか、あの光。とにかくこの映画を見る機会があれば飛びつくべきです。今でさえこれは前衛です。すごい現代性。ハイパーお勧め。
2006/9/20 イングマール・ベルイマン「仮面/ペルソナ」
かっこよすぎる、かっこよすぎる。因襲を打ち破って新しいものを作りたいと言うようなベルイマンのほとんど怒りにも似た激烈な欲求が私を殴りつけてやまない。久しぶりに映画の新しい可能性というものを見た。あらゆる奇怪なエフェクトが効果的で、例えばフィルム自体を焼いていったり、同じシーンを別の視覚から二度繰り返したり(これはやばかった)、幻想シーンの白いカーテンがタルコフスキーのように美しかったり(もう幻想シーンの連続の連続で、顔=ペルソナが逆行で陰になり二人が重なっていくシーンとか、もう唖然とするかっこよすぎて)。このまま永遠に続いてほしい見ながら死にたいとおもう映画を久しぶりに見た。本当に、あのまま永遠に続いてほしかった。
カーテンがやばかった。モノクロ画像で怪しく白く光る透けたカーテン。
なんというか、もはやアニメ的にやばかった。グレイスケールではなく白と黒だけで描かれるシーンが強烈に印象に残る。ベルイマンは多くを語らない。手法があまりにも斬新なのでそちらに全力を注いでおり、こちらもそれを全力で受け止め続けなければならない、という類の。一言で言うと超かっこいい。手法が前衛的で、ショッキング。つまるところゴダールのスピード感+タルコフスキーの「鏡」「ノスタルジア」あたりの突然の幻想っていう感じ。まったくやられた。これだけ映画の手法で圧倒的に殴られたのはヴィターリー・カネフスキーとキラ・ムラートワ以来。ただ、奥底まで突き抜けてくる感動かというとそうではなくて、ただひたすらかっこいい、これは真似できない勢いだ、ああ、負けた、と思い続けるしかない。こちらも一緒に動かされた「エル・スール」とか、こちらも一緒にこの世の果てで泣き咽ばざるを得ない「マザー、サン」とかとは、比較対象にならない。どちらをとるかといわれればもちろん後者を取るんだけど。だけどこの様式美、思い切りは凄い。ベルイマンがこんなことをしてくるとは。突然変異的。パラジャーノフならあまりにも異質の様式でまだ笑う余裕がこちらにあったけれど、これはちょっとこっちに身の覚えがある分切り裂かれるかんじ、暴力的に私に侵入してくるという感じである。
2007/1/13 エットーレ・スコラ「特別な一日」
唖然。まったく唖然。最初から最後まで、唖然。やばい。えろい。脱ぎもしないのに。ちりばめられたユーモア、それを自然に演じてしまうマストロヤンニ、しかしユーモアに満ちているにもかかわらず映画全体は暗い、深い闇に覆われている。こんな奇跡があって良いのだろうか。こんなすさまじい映画が、今の若者にほとんど知られないでいて良いのだろうか。と、私はいつもこんなことばかり書いているが、久しぶりにその種の義憤を感じる映画だった。いや、ほんとうに、「隠された名画」を発見して興奮するというこういうことが時々あるから、古いヨーロッパ映画を見るのはやめられない。しばらく僕は今から知るかぎりの友人に、ビクトル・エリセやタルコフスキー他旧ソ連の天才たちと並んで、エットーレ・スコラの「特別な一日」は、映画という概念を覆されかねない、すごい映画だといい続けることにしよう。お勧めか?や、それどころじゃないです。
2007/1/30 ジャック・ドゥミ「ロシュフォールの恋人たち」
すばらしいです。舞台のカフェーがおしゃれだし、人々が着てるものがいちいち可愛くて悶絶しそうであった。ストーリー展開も手に汗握るサスペンス的展開であり、お勧め。ラストもすばらしい。あと、やっぱりジーン・ケリーの立ち上がり方とかドルレアックへの近づき方とかが笑えて仕方がない。
2007/1/31 ベルナルド・ベルトルッチ「革命前夜」
ベルトルッチ22歳。これはすげえ。とにかくお勧め。とにかく、ヒロインのアドリアーナ・アスティ。嗚呼かわいい嗚呼かわいいと思っているうちにあっという間に2時間が過ぎ。あの上目遣い!カメラワークのすごさ。ほかにもいろいろ感心したけれど、いや、やっぱりあんな可愛い子が出ていて、こんな激しい撮り方をされてしまうと、悶絶するしかありません。絶賛。
2007/2/8 ハワード・ホークス「赤ちゃん教育」
まじですかこれ1938年なんですか。なんという現代性。今のコメディよりもずっと面白いじゃないか。いちいちギャグに大笑いできます。これはすごい。というかめちゃくちゃだ。超スピード。かなりお勧め。おそるべしスクリューボール・コメディ。ハリウッドをなめてました。ごめんなさい。
2007/4/14 レオス・カラックス「ポン・ヌフの恋人」
やっぱりこの人は天才すなあ。最初ちょっと入り込めない感があったのですが、途中からものすごい引き込む力がでてきて、とくに花火シーンの前後がものすごかった。とにかくものすごかった。やりすぎというところまでやってくれた。よく撮り終えたなあと泣きそうになった(資金難で何度も撮影を中断したらしい)。ここ最近ではなかなかない感動を得た。前作「汚れた血」も天才の輝き溢れ、超お勧め。
2007/10/12 ジャン・ルノワール「黄金の馬車」
ジャン・ルノワールってやっぱりすごい人だったんだなあ、と思った。息もつかせぬモンタージュがぐいぐいと見るものを引っ張っていく。ストーリーとモンタージュの幸せな結婚。見始めたときは、なんだか薄汚い色のつまらなそうなストーリーだし俳優もあんましぱっとしない感じ、と思ってみていたけれど、終わってびっくり、なんとまあ豪華な映画であったことか!女優、アンナ・マニャーニはそんな美人でもないのになぜか恋愛沙汰の中心へ行ってしまう、その演技がひたすらに圧倒的で有無を言わせません。すごい名作です。トリュフォーいわく「もはや映画ですらない」。