聖灰水曜日の楽譜
《81》柴田望

深夜油断していると俎板から活きのいい包丁ぬるりすべり落ち 足にあたって跳ねた 動脈に小さな裂け目がどくどく血を吐きだし タオルできつく縛ったが床上浸水のごとく出血はひろがり 光彩ゆたかな湖になり くるぶしの辺り漣(さざなみ)をうつ なんてことはなかった 筋萎縮性硬化症にかかった祖母のことを思い出した 見舞いの帰りにマフラーを忘れたおかげでひとり病室へ戻り 交わした言葉が最後だった 「これ、おじいちゃんが着ていたシャツだよ 覚えてる?」 「ああ、思い出した。」 活きのいい顔じゃなかったけど一瞬、血の気が戻ったね 二週間後血管は破れ くも膜下出血は静かにひろがっていき もう脈うつことはない 左足から流れる血の赤い指紋や足型を眺めていたら あたかも殺人現場のごとく台所が生臭くなってきた

ヤハウェの啓示 十災のひとつ ナイル川の水はたちまち血に変わり 魚は死に 井戸水やエジプト王パロの杯さえ血溢れる なんてことが本当にあったか なんの比喩か 時代の空気か 心臓より高く足を揚げることもできず大騒ぎして夜間救急病院へ向かったが 縫うほどの怪我じゃない 大騒ぎするほどでもない安産だったが 手を握り肩を抱きつつ 息む前の深呼吸をともにした二人にとってきみの痛みは偉大な節目だ 胎盤が子宮壁からはがれる後産の子宮の収縮が弱く 出血は止まらず 分娩室を沈没させた血潮に乗って南方へと回遊する鰡の群れがぴちぴち跳ねる なんてことはなかった 十ヶ月もきみを遊泳していた真名子が顔から順番に足までじょばっと現れ 見舞いに連れてくると約束した祖母はすでにこの世を抜けだしており 通夜と葬儀のおかげで 普段なかなか集まれぬ血の繋がり仏前に溢れ お経静かに脈うち 胎児を眠らす 

きみはご実家で産後ひと月過ごすので ぼくは一人台所で包丁のように鋭い冷凍の過去を裁くところをぬるり逃げられ 足に噛みつかれた 危険物の保安空地は厳守しよう あらゆる禁止事項を好むできの悪い息子のせいで 心配の現実化ばかりさせられる母がここで登場する マルグリット・デュラスのごとく、いつかぼくは母の病のことを書く、治るように、と念を固める 祖母に代筆頼まれ腹をたて わたしの字は汚い恥ずかしいなどと言いつつ母が書かされたあの手紙は どの境を越えたのか 不思議な住所をぼくは手にした それは符号しない各地点のずれであり 親戚どうしが平行して結びと解れを巻いていく緩慢な距離と点滅の長さだ 日暮れから夜明け 犯す過ちの背後に戒めが宿り 見方を少し変えたとたん血ではなく恩恵が溢れる なんてことばかりだ実際には 何もしてやれなかった悔いを 残したおかげでいつでも鮮明に呼び出せる 特別な故人のシルエットみたいに

ご親族の皆様 どうか最後のお別れを 棺の蓋は閉じてしまった わあぁぁーん、わあぁぁーん、かあさあぁーん、 泣き叫ぶ母の五十代の疲れた背は小学校上がる前の少女で 棺の祖母と冥界の祖父が泣きやまぬ妹の肩にそっと手を乗せ撫でるのを 学生帽被った少年の目で二人の伯父が振りかえっている ダムは破られ 参列者は首まで浸かり 火葬場の従業員は水着に着替える 火炎は絶好の写楽の波 天高く飛沫上げ 棺の着物と同じ艶やかな青くきらめく鱗の鯉は彼岸へ 爽快にライディングしていく ヒレ振る 頭から尻尾の先まで 劫火に浄化されし過去の骨組み接ぎ木はここで一旦打ち切られ 選択を待つ分岐条件網羅の夜明けを 水平を満たす最小単位の記憶に充当させ 共有化された秘密鍵の符合地点における個々の描写を 独立性を強く補いなさい思い出 


初出『砂の女』 08年7月発刊 《81》柴田望


自由詩 聖灰水曜日の楽譜 Copyright 《81》柴田望 2008-10-08 20:21:21
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