肉じゃが
窪ワタル
残業もそこそこに
今夜もいそいそと帰ってきた
玄関のすぐ脇の部屋で
かつて母だった生き物が
また呻いている
父の三回忌を済ませた頃から
母は溶け始めた
ビデオテープのように過去を再生しては
「お父さん遅いわね、せっかくの肉じゃがが冷めちゃうわ。」
というと
暫く目を泳がせながら
今に帰ってきて 泣く
次の日には行ってしまう
また帰ってきて 泣く
その繰り返し
やがて行ってしまったきり
溶けたのだ
昼間は毎日姉がきてくれる
妻はいない
緑色のふちの付いた紙切れが一枚
強い筆圧の文字が端然としていたせいか
不思議と安堵感だけが残った
「愛している。」
と あまり言わなくてよかった
朝が早いので
腕と足首に布を巻いて
ベットの柵に縛っておく
帰ってきて姉と代わる
いつもの儀式は無言のまま
裸にして体を拭く
オムツを替え
体位を変え
着せ替える
日に日に薄くなる背中に
母はいない
うー うー うー
猿轡を噛まされたように呻き続ける
怪物
今日正式に辞令が出た
子会社への出向
缶詰工場の係長へ昇進
おもわず笑えた
流動食を入れるとき
いまだに手が震える
怪物が呻いていられるのは
この泥のような液体のせいだ
味覚も満腹感もとおに溶けている
が 涙腺だけは働くのだ
涙が細い波のように鈍く光っている
遠浅の海だ
それでもずっと
ずっと歩いて行けばきっと
(溺れてくれ)
リビングのテーブルで
煙草を吸いながら
帰りに百円ショップで買った便箋に
「退職願」と書く
醤油挿しの隣で
ハルシオンの白が
婀娜っぽく笑っている
怪物と暮らして行く
これからもずっと
かあさん
肉じゃがって
どんな味だったけ
もうまるで覚えていない
俺は母を殺したのだ