ミカさん
亜樹

 仕事柄、深夜に帰ることが多くなる。
 駅から家まで帰る道のりの、唯一曲がらなければならない角に、その家はあった。
 日付が変わろうとするような時間帯である。
 だというのに、その家の家主であろう女性は、いつも洗濯物を干しているのだ。
 おそらくは、自分と同じような、夜型の仕事なのだろう。
 年の頃は、おそらくは自分よりも少し上だと思う。
 長い髪を一つにくくって、化粧気のない顔で、バスタオルを物干しにかけている。
 家の中の灯りが、その顔を照らして、テレビからは深夜番組特有の、かわいた笑い声が聞こえた。
 その家の庭には、ミントが生い茂っていて、ひどく涼やかな匂いが充満していた。
 そのため、僕は心の中で、彼女のことを勝手にミカさんと呼んでいる。ミントの香りのする人だから。
「そりゃあ、水商売の女じゃないのか」
 と、同僚は言った。
 そうかもしれない。けれども、どうも自分の中のイメージと合致しないのだ。
 ミカさんは、そういった夜の街の華やかさや気だるさとは無縁の人だと、なぜか勝手に思っている。

 その日も、ミカさんは洗濯物を干していた。
 月の大きな夜だった。
 いつものように、自分はただその家の前を横切る。
と、ふとミカさんが顔を上げた。
 月を見ている。
 なんとなしに自分も足を止めて、同じように見上げてみた。
 月の大きな晩だった。
「……静かの海」
「え?」
「ご存知ですか。あそこ。月の、あの部分。あそこを『静かの海』と、いうのです」
「……そうですか」
 立ち止まると、明るい晩により一層色濃く、ミントが香った。
 彼女の干した白いタオルに、その香りが移って、微かに淡いグリーンに染まったように見える。
 そうして、思いだす。
 ミントというのは、花の咲く前にもっとも香りがきつくなるのだと、学生時代に園芸部だった友人が言っていたのだ。

 ならば、まず間違いなく、ミカさんは咲く前の花だ。


散文(批評随筆小説等) ミカさん Copyright 亜樹 2008-09-27 21:25:23
notebook Home