毛を舐める猫
木屋 亞万
朝、目覚めると妻がいなかった
身重で明後日には出産する予定だった
大きなお腹が隣から消えた
「好きだよ」と言うと「当たり前」と答える
あの妻がいない
ふらりと朝の公園へ出向く
鳩が悲しそうに泣いている
痰が絡んだような、舌足らずな鳴き声
今朝急に寒くなったからぼとぼと落ちている蝉
どの骸も上を向いている
生物は死んでしまうと上を向くものらしい
水槽で白い腹を浮かべていた金魚の死骸を思い出す
考えないようにしようとしても、どうしようもなく妻の記憶が蘇る
妻も白くて大きなお腹をしていた
月明かりの下で私だけに見せてくれた張りのある艶やかなお腹
私はそのお腹が愛しくていつまでも眺めていた
妻が白いお腹をこちらに向けて眠っている
という日常の記憶すら悲しげな思いに侵されている
目を閉じている妻が死んでいるようで怖い
妻は連れていかれた
妻も子も死んだ
妻とはまだ連れ添って一年だった
子もできて、幸せの絶頂だった
眉毛に火がつきそうだった昔の孤独も、自失もすべて嘘のようだった
嘘のようだった過去と現在が、寝耳に水を流し込むように逆転した
白いお腹の妻は今、親子の白い骨になっているのだ
私はその骨に再会することすらできない
だから私は自分の腹を見る
平らで、汚い自分の腹を眺め
まだ見ぬ我が子を
妻の美しいお腹を想う
すべては私の中で完結する
世界との繋がりは完全に絶たれたのだから
私を捨てた自分勝手な人間と
妻と子を連れ去った理不尽な人間を恨む
愛する妻と子の分まで
私は毛を舐めている
私は孤独だ
私みたいな猫は山ほどいるのに
私は不幸だ
この世は不幸な猫で溢れているのに
幸せを潰す人間達のせいで
私は毛を舐める
朝、目覚めるたび
腹の毛を舐める
そして「好きだよ」と言う