【心理学批評】幻聴論
りゅうのあくび
ところで、幻聴と云う、一風変わった立ち振る舞いをする声のことを皆さんはご存知だろうか。
僕はそれが聴こえる方の人間である。いつからかというと十九歳のときに聴こえ始めた。そのちょうど2年前にはお化けが出るという噂のあった防空壕の跡地で、友人と一緒に霊を見て逃げ帰った経験があり、連れ立って防空壕に行った友人の一人は、ちょうどその一年後には他界し、そのちょうど一年後には幻聴が聴こえ始めた。その友人の死についてはとても残念だったが、幻聴の内容には、あまり関連が無いものが多い。受験戦争の最中に亡くなった友人は、男性だったが、聴こえてくる声は、女性の声が聴こえている。その友人の十二回忌には、近くの神社に特別な祈りを捧げに往こうと思っている。
普通の人でも、強い不安や孤独や不眠や緊張にさいなまれる状況に置かれている場合、幻聴が聴こえる場合があると云う。高い山の中で遭難した時や手術のための無菌室では、幻聴が聴こえるとある本には、書かれている。幻聴を相手にしてはよくない、それは幻聴が、正体不明の声であるからだ、とするのが、その本の趣旨であった。
実際には、幻聴を知らない方も多いだろうと思う。それは、ある種の人間には聴こえるし、ある種の人間にはまったく聴こえず、仮に聴こえる場合があったとしても、それは、ほとんど意味を成さない囁きのような耳鳴りであることも多いからだ。どんな種類の人間に幻聴とは聴こえるものなのか、実は、心理学の分野では、実際それほど明らかにされてはいない。一方で、精神医学の領域では、それは統合失調症の持つ特有の症状であるということだと分類されている。未だに謎が多い分野でもある。
幻聴に効果のある向精神薬と呼ばれる、薬についても、新しい銘柄のものが、次々と発売されてきている。幻聴に効くと云う薬の創薬という分野では、日本の先進分野であると云ってもよく、ここでは名前を挙げないが、最近は、副作用の少ない向精神薬が開発されている。
幻聴を聴いたことのない人間は、面白がっては、そんなことは病気なんかではない、と思う人もいるかもしれない。また、幻聴を聴いたことのある人間でも、幻聴は病気ではない、きっと宇宙の果てから来る声だとか、自分には背後霊の友達がいる、と思っている人もいるだろう。上に挙げたように、幻聴を肯定する立場は、両者の立場として存在しているのは事実だろう。
最近の僕の意見としては、幻聴とは、幽界からの所在不明の声であると、できるだけ否定的に解釈することにしている。しかし、それらは、怨念の世界や神の世界とは趣を異にしている。幻聴は、実に現在性に満ち溢れた存在であるからだ。必ず、僕が、思ったことに追従してくる。また追従していると思わせようとする。それが、時には、シニカルにも聴こえてくるし、冗長にも聴こえてくる。特に云えば、思わせぶりなところが幻聴のキャラクターである。では、どうして幽界からの声であるとするのかと言えば、幻聴に囚われれば、自分が死んでしまうことにさえつながることがあるからだ。その多くは、自分を見失うことによってである。その意味では、幻聴を抱えるリスクは大きいのだが。リスクが大きいだけではなく、幻聴を振り切るときの思考には死線を越えてゆくときの勢いさえ感じる。
今のところは、幻聴とは、できるだけ普通の関係を切り結ぶべきだろうと思うのだ。幽界からの声であれ、その声が所在不明のものだったとしても、そういったものに対しても、他人行儀すぎることが、自分の一部であってはならないと思うからである。むやみに敵愾心をあおる存在でもない。現在、幻聴は、それは自分の一部であるからである。とは云え、日常生活はとても忙しいもので、何かしているとそれほど気にならないので相手なんかしている暇もそうそうないし、ほっと一息ついて、何も考えたくない時に、やってくるのが幻聴だ。だから、何か考えているのが、まだましだったりする。いつの間にか、考えることが好きになってしまったし。誠心誠意、仕事や趣味に没頭したりして、全力邁進して、睡眠に付けば、いつかは消えて無くなる存在が、幻聴だろうと、信じている。自分が仮に病気だったとしても、それは、別に優先順位の高いことではない。薬は、幻聴を休めて憩いを取る安らかなきっかけになるとは言っても、病気である自分より先に、率先して行動を選ぶことのできる自分が、ここにいるのだと信じてやまない。一病息災であることを願って。2008.9.22