夏のナイフ
佐々宝砂
エアコンのない、
中途半端に古い家にいるものだから、
ほんとに蒸し暑くってかなわない。
料理なんかする気力ないし、
食欲ないし、
おまけに、
部屋のなかがへんになまぐさい。
生ゴミが腐ってるせいかと思って掃除したけど、
それでも妙になまぐさい。
部屋の隅っこで死んだまま、
誰もその存在に気づかないでいる、
乾涸らびかけたネズミみたいな臭いがする。
どうにも気持悪いんだけど、
食べなきゃ夏バテしちゃうから、
冷や奴とキュウリもみでも食べようとしたら、
菜切り包丁がない。
ステンレスの穴あき包丁もない。
柳刃も出刃包丁もない。
チーズ切りナイフすらない。
もしかしたら泥棒?
と思ったけど、
考えてみたら、
ずーっと家にいたのに泥棒が入るわけがない。
しかたないから豆腐は丸ごとそのまま出して、
キュウリはぼきぼき折ってキムチの素をかけた。
我ながら安直な夕飯だなあと思う。
ダンナもそう思ってるらしい。
すこし不機嫌そうなのでそれとわかる。
これじゃない。
こんなンじゃない。
こんなにしかくくない。
こんなにあななんかあいてない。
こんなにほそながくない。
こんなにおもくない。
こんなにへんなかっこじゃない。
こんなンじゃない!
これじゃない!
どこかで子どもの泣く声がした。
赤ん坊の泣き声じゃなくて、
小さな子どもの声だ。
ダンナはさらに不機嫌そうで、
私との間に新聞の壁をつくって、
テレビさえ見ようとしない。
イヤな雰囲気漂う家の中で、
ゴト、バタ、と、
家鳴りがした。
これじゃないンだ。
あれがほしいンだ。
ずっとほしかったンだ。
でもかってもらえなかった。
あれはもうすこしおおきくなってからだって。
また子どもの泣く声がした。
今度はさっきよりはっきりと聞こえた。
ダンナが新聞の壁を突然に崩した。
うるせーなーと不機嫌に言うかと思ったら、
違うみたい。
おまえ、あいつだろう、
マァちゃんだろう。
あれだな。あれがほしいんだな。
ほしがってたもんな。
はっきり言やいいのに、バカだな。
台所に向かってそう言うと、
立ち上がって、
納戸の戸棚をごそごそやりはじめてる。
何がなんだかわからない。
今度は私がイライラしてきた。
ダンナは小さなナイフを握りしめて、
居間に戻ってきて、
イライラしてる私を無視して、
ほら、やるよ。
ナイフを投げた。
すい、とナイフが消えた。
粉砂糖が水に溶けるみたいに。
すっかり消えてしまったと思ったら、
バラバラバラと私の包丁が落ちてきた。
よりによって、みんながみんな私の膝に。
ちょっと流血の惨事。
私はプリプリしながら傷に消毒薬を塗る。
それはまあいい。
たいしたことなかったからいい。
それよりアタマにくるのは、
あれってなんだったの?と
ダンナに訊いても、
ありゃひごのかみさ、
というだけで、
ちっとも説明してくれないことだ。
そのくせダンナはブツブツとひとりごと、
ずっとほしかったって?
あいつ、三年しかこの世にいなかったじゃないか。
そういや四十五回忌か。
四十八年もほしがってたのか。
ひごのかみって、カミサマ?と訊いたら、
ダンナはゲラゲラ笑って、
それからいやにしんみりと、
手酌で焼酎を飲みだした。
家鳴りは鎮まり、
なまぐさいのもいつのまにか収まって、
網戸から涼しい風が吹いてきた。
初出 蘭の会2003年8月月例詩集
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