夏の終わりに吹く風に 2
十重山ハルノ

 運転席側の窓を開けると、雨がアスファルトの塵を吸って蒸発した匂いが流れ込んできた。夕暮れまで降っていた雨は、真夜中過ぎの蒸し暑さに変わった。信号の向こうに見える、大きな洋菓子の看板の隅には温度計が付いていて、少し滲んで見えたけれど19.6度を示していた。風は私のタバコの灰をさらって、助手席に居る彼のカーゴパンツの上に落ち着いた。彼は頬杖を付いて窓の外を見ていた。きっと、窓の方に顔を向けていたと言ったほうが、正しいのだろう。おそらく彼は、彼と、私と、私たちのことを考えているはずだから。赤信号のタイミングで、タバコの灰を払った。灰は、私が払った分だけ伸びて痕を残した。彼は「ごめん、ここで」と言った。彼の家は、まだかなり先だった。
 
 彼とは、私が友人に誘われて何の気なしに行った合コンで知り合った。今思えば、何で私は合コンに行ってしまったんだろう。友人が「合コンくらい行っておいた方がいいって」と、おそらく自分の彼氏探しに、私を誘っていなければ。それに私が乗っていなければ、彼に会うことはなかったのに。合コンなんてなければ、彼がいなければ、彼が生まれていなければ、私が生まれていなければ、こんなに苦しいことも無かっただろうか。私が、結婚していなければ、子供がいなければ、こんなに苦しむこともなかっただろうか。
 
 高校時代から付き合っていた今の夫と結婚したのが9年前で、子供を授かったのが8年前。あまりに順調な生活。あまりに先まで見えすぎた未来が、逆に私を不安定にしたのだろうか。彼に「付き合いたいな」と言われた時に、私は夫を隠した。愛くるしいわが子を隠した。私の中の色々なことを隠して、私は彼に抱かれていた。ベッドでタバコを吸う私に、彼は「タバコ吸うんだ?」と言った。「飲んでるとき、全然吸ってなかったから。俺も吸うからさ、ちょっと遠慮してたよ」と、露にした私を、彼は抱きしめてくれたのだ。今思えば、強がりだったのだろう。夫がいて子供がいる私に、「そっちがいいなら、いいよ」と彼が言ったのも、彼と離れられなかった私も。子供を迎えに行く私を笑顔で見送る彼も、迎えに行ったわが子に自然と「ごめんね」と言ってしまった私も。そして、強がりだけでできてしまった世界に生きるには、私たちでは脆弱すぎたのだ。

 彼を家に呼んでしまった日、彼は、ランドセルを目にして「やっぱダメだわ。別れよう。もう会わないでおこう」とだけ言った。一瞬にしてランドセルを灰にできる方法があればいいのに、と私は思った。けれど、そのすぐ後に脳裏を掠めたのは、夫と子供のことだった。私は、彼を家まで送る間中、夫と子供に謝罪した。何度も、何度も、謝罪して、私は泣いていた。傲慢な謝罪だと思った。落ち着きがなくなった私はタバコに火をつけて、やがて車内が煙に巻かれた。窓の方に顔を向けていた彼は、「俺さ、本当はタバコあんまり得意じゃなかったさ」と、窓の方に顔を向けたまま言った。
 
 窓を開けると、咽返るようなアスファルトの匂いがした。私が、彼の上に飛んでしまったタバコの灰を払った後に、彼は「ごめん、ここで」と言って、静かに車から降りていった。私は彼の背中に「ありがとう、」とだけ伝えた。自分の声が、どれくらい出ていたかは分からなかった。もしかしたら、声すら出ていなかったかもしれない。辺りには、あいかわらず風が吹いていた。蒸し暑い空気をかき混ぜるだけの風の中に、一陣だけの冷たい風が頬をなぞっていった。と、同時に携帯が鳴った。夫からのメールだ。送信日時は日をまたいでいて、9月1日になっていた。夫からのメッセージを伝える液晶画面は滲んでいた。メッセージを読み終えた後で、私は何とか、彼の連絡先を消去した。そしてしばらく、風の吹く方向に車を走らせ始めた。車内に吹き込む風が急に温度を下げたような気がしていた。そういえば彼との付き合いは、春の終わりから秋の初めまで、半年にも満たないくらいだったんだと、そのとき気付いた。なぜだか可笑しくて、声を出して笑った。すると、口元からタバコが滑り落ちていった。私は、あわててハンドルから手を離して、スカートに落ちたタバコを拾い上げてくわえ直した。スカートは、彼が誕生日にプレゼントしてくれたものだった。前を向きなおすと、対向車線を走る車のフロントライトと、タバコの火が重なって見えていた。


散文(批評随筆小説等) 夏の終わりに吹く風に 2 Copyright 十重山ハルノ 2008-09-01 17:38:14
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