若さと老い
パンの愛人
たまの休日に友人と会って話をしていても、近頃はすぐに「何か面白いことないの?」と、まるでそれが合言葉であるかのように、たがいの口からとびだしてくる。生活に刺激がないのは、環境が違えどみんなおなじで、潜在的な不満足感が、どこかに捌け口をもとめているのである。
会話の内容自体にもいくらか変化がみとめられる。以前は、じぶんたちの視野が直接とどく範囲内だけでも、充分すぎるほど話題は見つかったものだが、いまでは社会的な時事問題にも関心を広げなければならないほど、スキャンダルのとぼしい日常のなかにすっかり溶けこんでしまっている。のみならず、時事問題はとかく暗い話が多いものであるから、自然と会話は、生彩を欠いた仮装の深刻さのうちに沈みこんでしまう。しかし、だれだって好きこのんで暗い話をしたいわけではないし、そもそもそんな話をじぶん自身ほんとうに身につまされて感じているわけではないのだ。だからこそ、無意識のうちに口が動くのである。「何か面白いことないの?」
これが精神的な老化現象であるのはほぼ間違いがない。一見、泰然自若としているが、要するにこういった気分は、じぶんが動くのは億劫だから、他人が動いているさまを観覧することで不満解消の代用にしようという怠惰から生じたものであるのはあきらかだ。また、こういった受動的態度の危険性を察知しているからこそ、その打破への焦燥感を覚えるのであろう。
これが一時的な症候であるならまだしも、慢性的になれば、いよいよ生活は魅力のないものになってしまう。これはけっして生活が安定した結果ではない。いまだって昔とかわらず、あらゆる面で不安定な状況はつづいているのである。たとえば、経済上に由来する不安、不適応感から生まれる疑心や嫉妬、特異な性衝動、など。
歳月は確実にわたしたちの若さを奪ってゆく。それは肉体的には言うに及ばず、精神的にも同様である。しかし肉体的な退化はあきらめがつくが、わたしは精神の機能が衰えてゆくのをただ傍観していることはできない。もちろん、肉体の衰えが精神の磨滅をひきおこすこともあれば、またその逆もありうるだろう。「健全な肉体に健全な精神は宿る」というギリシャの教えは現代でもじゅうぶん有効である。しかしわたしはそれでもなお、不健全な肉体にも健全な精神は宿りうることをいくらか信じてみたいのである。
マルコム・カウリー「八十路から眺めれば」は、八十歳を越えた著者が、老年について、ときには分析的に、ときにはユーモラスに、自分の知識と経験をもとに書いた含蓄のある小著で、これら同年代の人びとへ向けたメッセージからは屈託のないあたたかな親密さを感じとることができ、読後には、はからずもひとつの円熟した人格といったものが生々しい輪郭を持って浮かび上がってくる。
かれは詩人であり学者でもあった友人のラモン・ガスリの「かずかずの冒険と比較的狭い世界での褒章と、個人的挫折とに満たされた」生涯から、「詩人であれ主婦であれ、実業家であれ教師であれ、老人と一人びとりには、自分の生気を失いたくない限り、何らかの仕事の計画が不可欠だという」教訓を導きだしている。
そうした上でマルコムは、じぶんの計画について、「私たちの生のなかに何らかの形態というか、一つのパターンを発見したいということ」だとのべている。人生は「私たちの一人一人が主役を演じる一つの劇」であると同時に「私たちは観客でもあるし、時には翌日の朝刊に批評文を書く劇評家でもある」
かれは自身の計画のためには、まず第一に「私たちの生を組み立てている素材を一々拾い集めること」、すなわち「単に思い出すこと」が必要であるとしている。
このような積極的な懐古は老人だけに許された特権であろうが、その積極性がいまのわたしにはいくらか眩しく見えるのである。
人生への積極性は、一方的に与えられるものではないのだ。それはわたしたち自身が発見し、ときには発明しなければならないものなのだ。それは、わたしにとってあまりに明白な事実である。ではどのようにして? その解答も、わたしにとってあまりに明白なものである。つまり、――ただひたすら生きることによって。
そして、このように書くことによって、わたしは近頃低調なわたしを積極的に鼓舞したいと考えているのだ。