街の住人
ブライアン

思い浮かぶのは、熱が反射する道の景色だけだ。一日が熱に溢れている。記念日が連続すればいい。連綿と続く記憶のように。忘れることを強いてもなお、忘れることができない生活の一部になるように。歩く動作のように、考えるように。暗闇の猫の瞳のように。

重力を感じない日はなかった。山に囲まれた土地に育った。いつも山が見ていた。束縛していた。この地に足をつけさせた。飛び立つことはできない。青空を羨むことはなかった。鳥もまた山に帰るのだ。山から逃げることなど考えもしなかった。

だが、アスファルトは固すぎる。重力を反射する。山は遠く、その巨大な力は及ばない。空は、ビルに遮られているばかりだ。山のように鳥の帰る場所ではない。鳥は公園にいる。欲望を知っている鳥は、甘いアイスクリームを狙っている。ゴミ袋の残飯を狙っている。

空を夢見る。飛び立とうか、飛べはしないだろうか、とベランダで考えている。ベランダでタバコを吸う誰もが、ベランダで電話している誰もがそうだ。ビルが空へ伸びる。空に届くことはないビルが、どこまでも高くなる。

地震を怯える都市も、爆弾を忘れたまま、悲劇を語るばかりだ。ガラスに照らされた光は、輝きを自慢している。ビルは伸びる。山よりも高く、ビルは伸びる。けれど、ビルには帰らない。重力を感じなければならない。帰る場所を見つけなければならない。土から分裂したアスファルトの上では、思い出もまた同じだ。熱を反射する景色ばかりだ。緑の山も、川の流れる音も、夕立の暗闇も雷も雨も風も、薄れていく。輝かしい思い出だと、自慢するばかりだ。光り輝くガラスのように。

路地の家のことごとくは、軒下に木の鉢を置き花を植えていた。愛しかった。秋幸は川原に立ち、男を見ながら、その路地に対する愛しさが、胸いっぱいに広がるのを知った。長い事、その気持ちに気づかなかった、と秋幸は思った。竹原でも、西村でもない、路地の秋幸だった。

「枯木灘」 中上健次


街は、繋がりを絶つ。すれ違う人は何者でもなかった。熱を帯びるこの道の上で、祈り、愛し、生きることを望むばかりだ。歩くスピードを感じ、足の裏にすれる重力を見出し、ビルを見上げることをやめる。タバコの煙は闇に消えた。消えた煙ほどの事ではない。窓越しに見える煙に会釈する。人は忘れないのか。忘れないことに意味はあるのだろうか。忘れたとしても、忘れなかったとしても、何者でもない。何者か、でしかない。


散文(批評随筆小説等) 街の住人 Copyright ブライアン 2008-08-08 00:05:58
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