山の手紙
yo-yo

きょう手紙が届いた
とおい山のホテルの便せんと封筒
差出人はぼく
自分から発ち自分へ帰ってゆく旅人の
孤独な手紙だ

恵那山トンネルという
中央自動車道の長いトンネルを抜けた
恵那山の語源は胞衣(えな)だという
母の胎内で卵のように包まれていたことを思った
ひとは生まれる前に
長い闇をもがき生きていたのだ

胞衣を脱ぎすてると光の目くらまし
ぼくは赤子になって
とつぜん知らない土地に放り出される
それは山と呼ばれ川と呼ばれるのだろう
山は空に向かって膨らんだ乳房
山襞には白い乳が流れている
ぼくは赤子だから
ただ青いものを吸いこみ白いものを飲みこむ
赤い花の名前も知らない

カラマツソウ
ミヤマニワトコ
ウツボグサ
ハクサンオミナエシ
花は花
名前は名前にすぎない

深い森を抜ける
木々のささやきは鳥の言葉に似ている
近づくと黙ってしまう
逃げてゆく青い翅を追いかける
飛び交うものには名前がない
水底の小石はすべて透きとおっている
それは川だろうか風だろうか
この芳しい懐かしさ

斑紋のある魚が泳いでいる
お前はここで生きてここで死ぬのだろう
水のように優美ないのちだ
お前のやさしい鰭がうらやましい
その冷たい水に
ぼくの指先は三十秒も耐えられないけれど

振りかえると
赤子はたちまち老人になる
これまでどうやって生きてきたのだろうかと
道標の文字をさ迷っている
旅人はなかなか行先を見つけられない
山はのどかに噴火している
ぼくは噴火しない

快晴
気温二十五度
標高一五〇〇メートル
胞衣を捨て
雲の境い目を抜けると夏が見えた

ぼくは回想する
そして言葉を追うだろう
いまは言葉だけになってしまった山と川を
さらに花と風と赤子とを
だが手紙は書かないだろう
そこにはもう
ぼくは居ないのだから




自由詩 山の手紙 Copyright yo-yo 2008-07-23 07:21:28
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