始まりだけの、物語。
橘柑司

その日は、何も特別な事がない、普通の日だった。
 いつものように朝起きて、いつものように電車に乗り込んで、いつものように学校に行って。いつも通り授業を受けた後は、またいつものように電車に乗り、いつものように駅前のデパートの本屋を物色し、いつものようにあがってきたばかりのエレベータに一人で乗り込んだ。
 そして、いつものように、僕は一階へのボタンとドアを閉めるボタンを、トトン、ときれいなテンポで押した。
 押したはず、だった。
 しかし、エレベータのドアは開いたままであった。
 あれ、と思わず声に出す。僕は、もう一度閉めるボタンを押してみた。が、閉まらない。三度目、ボタンを少し押し続けることでようやく、ドアは閉まった。
 それを確認して、僕はゆっくりと脇の手すりにもたれた。エレベータが下に動き出し、そして重力が弱まる感覚を受ける。
 僕は、ドアとは反対側の、ガラス張りになっている方に目を向けた。そこには、夕暮れの街並みが広がっていた。この六階からの視点というのは、僕に色々なものを見せてくれる。
 駅。たった今入ってきた電車と入れ違いで、僕がさっきまで乗っていた下りの鈍行列車が、上りの快速となって出て行こうとしている。
 交差点。信号が青に変わり、学生や社会人たちが駅に向かうために、あるいは家に帰るために、文字通り道路の中央で交差していく。
 人。ひとりで歩いていたり、友達と笑い会っていたり、恋人がと手をつないでいたり。それぞれが、それぞれの時間を過ごしている。
 それらのすべてを、オレンジ色のひかりがやわりと包み込んでいた。
 斜めから差し込んで来る光に目がくらみ、僕は目を細めた。しかし、顔を背けはしなかった。唇のはしが自然とあがっていたことに気づく。
 だいぶ日が短くなったな。そんなことを考えていると、不意に体が上から圧力を受ける感じがした。うしろを振り向くと、階を示すランプが「5」で止まり、ドアが開いていた。
 しかし、乗り込んでくる人は、誰もいなかった。ドアの外に少し顔をのぞかせてみたが、そこにも人はいない。もちろん、エレベータの中にも。
 この建物も、もう10年くらい前のものだものなと、僕はあまり気にせずドアを閉めるボタンを押した。
 けれども、また、ドアは一度で閉じてくれなかった。
 なんだよ、もう、と軽く舌打ちをする。
 先程と同じように、僕はボタンを押し続けてみた。やっとドアは、閉まる。エレベータはゆっくりと下降を始めた。
 まさかとは思うが、知らない内にボタンを押してしまったということは、考えられなくはない。僕は、側面にある車椅子用のボタンに触れないように手すりに体重をあずけた。
 それでも、『四階です』という機械的な声が聞こえ、ドアは開いた。
 今度も、エレベータを待っている人はいなかった。今度も、ドアは長押ししなければならなかった。僕は、今度はどこにも寄りかからずにエレベータの中央に立った。
 そうしても、エレベータは三階で止まり、開く。乗り込む人もいない。僕は二度目の舌打ちする。
 故障、だろうか。さすがに三回も連続でイタズラなどにあうということはないだろう。ドアだってボタンを長く押さないと閉まらない。上るときのエレベータは、いつものように動いていた。降りるときも、いつもとおなじエレベータに乗ったのだけれど、まるでいつもとは違うエレベータに乗ったようだ。そう、いつもとは……
「ああ、そうか」
 僕が乗り込んだものは、いつもと同じエレベータだったのだろうか。いつもとは違う別のものだったのではないか。
 ボタンを長く押してドアを閉める。
 そう、僕が乗り込んだこのエレベータがいつもとは違うものならば、きっと、この三階のランプから二階のランプに変わって少しすると、
 『二階です』
ほら、止まるんだ。
 僕は、苦笑いをしながらドアを閉めた。不思議と、さっきまで感じていたイライラがなくなっていることに気づいた。
 エレベータが下に動き、体が浮く感覚がした。
 本当なら、もうすぐドアが開いて、いつものようにこのデパートを出て帰路につく。
 でも。
 何故か、そうならないような気がした。
 次にエレベータが開いたら、いつもとは違う所にでるんじゃないだろうか、そんな予感がした。
 背面のガラスが無機的なコンクリートの壁に変わり、夕日が遮られる。外の世界から孤立させられたように感じた。あるのは、少し頼りない明るさの蛍光灯の光だけ。
 僕は、目を閉じた。クリスマス・イブに枕元の靴下を確かめながら眠りについた、あの気持ちが蘇ってくる。
 エレベータは、どんどん落ちていく。まだまだ沈んでいく。二階でドアを閉めてから、だいぶ長い時間がたっているように感じた。でも、それは、ただの僕の気のせいで、本当はいつもと同じ時間しかたっていないのかもしれない。けれど、僕が今感じている時間の長さは、確かにいつもと同じではなかった。

 『一階です』。
 重力が一瞬強まり、そしてすぐに元に戻る。やっと、底に着いたのだ。
 ドアが開いていく音が聞こえた。
 僕は、ゆっくりと目を開いた。逸る気持ちを抑えながら、できるだけゆっくりと。
 外界の光が、エレベータの中に飛び込んできた。
 僕の目に映った場所は。


散文(批評随筆小説等) 始まりだけの、物語。 Copyright 橘柑司 2008-07-03 02:36:02
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