ハクチと呼ばれた少女
影山影司

 僕は少女を飼っている。
 元々はしらがで生まれてきて、母親にすら気味悪がられて捨て子になった赤ん坊だ。
 ほんの思いつきで、行き当たりばったりで始めたのだけれども、赤ん坊には愛だけを教えようと考えた。まだ泣くことしか知らない赤ん坊に、アルファベットをカプセルに詰めて与える。ひらがなを、カタカナを、漢字を詰め込んだ。小さなカプセルはつるつると滑って胃袋に落ちた。少女は文字を覚えたけど、僕は少女の前で一言も喋らなかった。だから赤ん坊は少女になっても、言葉を発しない。

 ほっそりとした首筋は、はくしの日記帳よりも希望に満ちあふれていた。


 この世が腐りきっているから人々は美しくなれないのだと僕は知っている。
 腐ったリンゴの樹になるリンゴは当然腐っているのだ。
 だから少女にはこの世の一切を与えたないよう気を配った。
 先ず、屋敷の一室をしろい壁紙で覆った。天井も壁も床も全てつるつるのしろだ。壁紙はぼんやりと輝く特殊なものを選んだ。部屋には一切の影を作らず、遠近感を喪失させることに成功した。
 川を作り噴水を作り池を作った。少女は噴水の下で水浴びすることを好んだ。下流で排泄することも教えた。
 水には定期的に栄養剤を入れていたので彼女は水を飲むだけで生きた。運動を好まず食が細い彼女は、日光など浴びたこともない。病的に美しい。きっと太陽を掲げたとしても少女は影を落とさなかっただろう。僕は少女を愛した。愛を与えるために愛したし、何より湧き出る感情を押し留められなかった。

 少女は書を好んだ。
 貧弱な知識の中で唯一、書に関することだけは豊富に与えていたのだ。
 僕は少女を膝に乗せて、少女の代わりに頁を捲り無言で読み聞かせた。
 例え絵本であったとしても少女の細腕には重過ぎたのだ。


 僕自身もビブリオマニアと呼ばれるほどの書物好きだった。遺産で譲り受けた屋敷の大半は、本棚とそこからあふれ出た書物ばかり。僕は俗物の蒐集家達とは違った。誰よりも書物を愛していた。数奇な運命を感じた日には数学者の書を、料理書は香ばしい珈琲を煎れてから飲んだ。旅行記は電車の中で読み、旧友に出会った帰りには青春小説を愛読した。
 書物をせせこましく教養だ知識などといって読む輩は下劣だ。
 特別な環境で特別な諸を読む、するとどうだろう。記憶よりも深く朧気な部位、思い出が充足し、ただの一冊が忘れがたい名作となるのだ。僕は特別な名作を集めることを、至上の幸福としていた。

 少女は何年たっても少女のままだった。
 胸は膨らまず背は伸びず、幼い顔立ちは幼いままに美しさを増した。
 少女は貪欲に書を読んだ。僕の愛蔵品を読み尽くす勢いだ。まるで芋虫が変態を行うために、異常な早さで葉を食い進むように。少女は僕が居ない時は眠り、僕が来るとじっと黙って書を広げるのを待っていた。
 黙々と読み進める少女の横顔はまさしく知性に溢れている。
 僕の思い出はどんどんと上書きされていった。

 今までの、外界のノイズに溢れた思い出じゃない。
 どこまでも少女とのまっしろに澄んだ思い出に上書きされていく。
 少女も僕と共有した思い出を重ねていく。


 この世は腐っているが、僕と少女の世界だけは美しく光り輝く。


散文(批評随筆小説等) ハクチと呼ばれた少女 Copyright 影山影司 2008-05-27 04:38:39
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