無題
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■或る猫のイメージに悩まされている。
黒猫で、きちんと正座していて、そして首は切り落とされている。水平な切断面からは花が溢れんばかりに咲いていて、花束のようである。脊髄から花弁にいたるまでピンと張ったラインが美しい。花園は風に吹かれて、銘々の花は互いに乱雑な方向にたなびくが、まさにその方向はまったくランダムであるが故に、総体としてはあらゆる動きは相殺され、統計的にいえば、花園は全く微動だにしない。花園は完全な渾沌であるゆえに完全である。そのようなアセファルを抱えたそれをわたしはなお猫と呼びたい。それは猫ではないからだ。そも、いったい何を以て顔と認めればよいのか? 目が合えば顔なのか。しかしわたしはどの花と目を合わせたらいいのかもよくわからず臥せ目がちである。だが猫は咲き誇っている、もはや何も見てはいないが。そんなイメージ。
■像を結ばなかったイメージも計算に入れれば、それらはこの世界よりも遙かに(あるいは僅かに)大きい。乱視の天使。乱視の天使の卵子かさなぎ(imago)を巨大な虫眼鏡で焼き焦がす。それでこそ虫眼鏡だ。焼き焦がすような焦点だけが世界像(imago mundi)を結ぶ。天使は乱視で生まれてくる。乱視だから、生きていても死んでいても関係ない。
■夢は計算できるが検算できない。もっとも、現実は虚偽であって、検算できるが計算されることはない。