春を告げる
亜樹

 定子がこの山間の小学校の臨時講師をするようになって、半年が過ぎた。いまだ戸惑うことが多い。それはけして近年盛んに報道されるような子供の素行についてや、モンスターペアレンツなどと呼ばれる極度に過保護な保護者についてなどではなく、むしろその逆だった。
 ここいらの小学校にもっとも多く寄せられる苦情は、やれ庭先の柿を盗んだだの、うちの沼でざりがにを釣っていたなどたわいなく、それまで街中の学校にしか勤務したことしかない定子にしてみれば、可愛らしいとしかいいようのないものだった。少しやんちゃが過ぎる子供にしても、爆竹を鳴らすのが関の山だ。田舎らしい排他的なところがないでもなかったが、それは何もここに限ったことでもなく、さほど気にはならない。定子の長く黒い真っ直ぐな髪と名前は、しばらくは子供たちの格好の餌食だったが、それも半年もすれば収束している。定子にしても、日本一有名なホラー映画を彷彿させる見た目は子供の相手をする仕事をするのだから、どうにかしたほうが良いのではないかと思わないでもない。しかし、何分定子の髪は短く切ると妙な癖がでて、四方にはねてしまう。不精な定子は、もう十何年も髪型を変えていない。
 それはともかく、定子がここに来て、いまだ慣れないのは、自分が自分の背丈の半分もない子供よりもものを知らないと言うことだった。生活の時間に学外にでれば、彼らは文字通り道草を喰う。驚いて止めようとすると笑われる。「イタドリだよ。知らんの先生?」山の紅葉にも負けないほど頬を赤く染め、笑う子供に進められるまま、口にした雑草はひどく酸っぱい味がした。
 渋柿を食べさせられたこともある。クラスの一人が家で採れたのを持ってきたのだ。騙されたわけではない。はじめから「渋柿を持ってきた」とその子は言っていた。他の子どもは頑として口をつけなかったのを、面白半分に齧ってしまったのだ。その結果、口の中が痺れるような嫌な渇きが、しばらくの間定子を苛んだ。「渋い」という味覚をそのとき定子は始めて知った。
 そうして、昨日、放課後に彼らは口々に言った。「明日は雪が降るよ」と。
「なんでそんなことがわかるの?」
「やって、三回目やもん。白くなったでしょう?あのお山」
 そうして彼らが指差すのは町を見下ろす、遠い高い山だ。
「あの山にね、三回降ったら、里にも降りてくるんよ。雪が」
 その夜定子は深深と降る雪の音を聞いた。

 朝、カーテンを開けると、予想に反して積もってはいなかった。しかし、空はどんよりと暗い。重たいにび色の、耐えるような色。
 おそらく、しばらくすればまた白い風花が舞うのだろう。窓の硝子の端が白く凍っていた。
 定子の部屋の出窓には、何も生えていない白いプランターがある。種は先日蒔いた。この花が咲くのはいつだろう。今日学校に行ったら、子供たちに聞いてみるのもいいかもしれない。不意にそんなことを思った。


 子供たちの暦の通りに訪れた冬は、子供たちの暦の通りに去るのだろうから。


散文(批評随筆小説等) 春を告げる Copyright 亜樹 2008-03-09 01:50:11
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