眠れる彼の春
藤原有絵

眠れる彼に口づけをすれば
凍てついた私の身体は溶け出して
彼の中をゆらりと満たす
戸惑いにも似たうすべに色の吐息に
待ちわびた生命たちが歓喜する

みずみずしく謳歌する
すべてが覚醒をすませば
彼は差し出された
小麦色の熱い彼女の手を取り
眠るように また終わる

焼き切れた彼女の歌が
金切りのメロに変わる頃
大人しくお利口な静寂が
頬に女神の口づけをたまわり
残月のような熱雷を手で制す

静寂はただ其処へ佇み
生者の躍動が集約されていく様を
みとめ その肩に手を置き
冷たい眠りへ誘い
其の別れに咽び泣く

感傷と手を繋ぎたがる彼は
最後には私の元へやってくる
そっと抱いてやると
涙はひき 赤子のように
すっかり私の腹におさまっていく

私は取り込んだ感傷に負けじと
心を凍てつかせながら
生者の眠りが
死者の回帰が
静謐のなかに起こることを
直(ただ) 長い沈黙に祈り続ける

歌は忽如とやってきて
機を織るように規則正しく
私の胸を震わせて
彼の眠る場所を示唆し
星彩に染まった地図を織り込む

眠れる春は ただ美しく
悠然と結ばれた薄い唇が
陶器のような白い肌が
長い睫毛の落とす影が
私の心を捉えて 熱が生まれる

抗う事は許されず
私は永遠のような一瞬の中で
恭しくその頬に触れて
彼の命を呼び覚ますため
柔らかな唇に口づけをする

そのとき
温かな痛みに包まれながら
私は一つだけ恋を産み落とす
凍てついた私は溶け出し
意識を手放しながら彼へ流れる


私は冬で
彼は春だ

春は夏に焦がれて
夏は秋に黄昏れる
秋は冬を求め
冬は春に恋をする

気の遠くなるような時を
ただ繰り返し
恙なく続く儀式 四季


どんなに切望しようとも
私が彼の声を聞く事は叶わず
開かれた其の瞳の色さえ知らない

私が恋をする者である事も
彼が知る事は 決して ない

等しく愛するため
全てに愛されるため
彼は幾度となく
息を吹き返す


世界は彼を待っている


そこに
私は存在しない

私の産み落とした
一つの恋が
やがて
あたたかな風と成り
あまねく光と成り
彼に歌を教える







自由詩 眠れる彼の春 Copyright 藤原有絵 2008-03-06 21:58:41
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